演奏会のプログラムに掲載した栗山文昭からのメッセージです。
市民合唱団 響
合唱団響はOMP時代から所謂「市民合唱団」でありたいと活動を続けている。つまりどこの町にでもあり、だれでも入団できる合唱団だ。だから響には入団テストもないし、基本年齢は問わない。ただお見合い制度はある。4回練習に来て双方で判断する制度だ。だからそこそこ歌える人も初心者もいる。
最近、コンクールなどで多く見かけるのは、SNSを利用して合唱ジプシーと云われる人が集まった合唱団や、高校時代の合唱部の卒業生だけで、やはり金賞の夢を追う合唱団などだ。上手くて感心はするが、なかなか感動にむすびつかない。(同質性の気持ちの悪さ?)。文化は異質の人や物が衝突し融合して創られ活動していくものではないか。合唱の在り方もそう。ヨーロッパのコンクールなどには出ないプロの合唱団に年齢の幅の広さ、人種の多様性を見ることができる。(歌劇場の合唱団だけでなく)。
合唱団響には、私と50年近く共にいた仲間から先月入団した若者までいる。しかも昨今めずらしい70人以上の大所帯。
今回のプログラムも響が市民合唱団で大所帯である故に組めた。モンテヴェルディのマドリガルだってブラームスの四重唱曲だってみんなで歌いたいのだ。三善作品も音程や変拍子が難しくとも、私も含めて演奏しておきたいのだ。
最後の曲、交聲詩「海」は32年前、ここサントリーホールで生れた。初演の4年前に、詩人・宗左近、作曲家・三善晃に、詩と曲をお願いするにあたり、私が見た沖縄最南端の摩文仁の丘からの涙のような霧に霞んだ海の話しをした。それは先の大戦で亡くなった多くの人々の無垢の魂に思いを馳せてであった。
海から誕生した人の魂は、また海から青い薔薇、黄いろい薔薇、赤い薔薇となって、宇宙というもうひとつの誕生した海へとのぼる。
最後のハ長調は無垢の魂への慈愛の光。だから交聲詩「海」は鎮魂の讃歌。
サントリーホールは、また海になるか。
中也と私と山口線
「長門峡に、水は流れてありにけり。寒い寒い日なりき。われは料亭にありぬ。酒酌みてありぬ。」で始まる「冬の長門峡」という中原中也の晩年の詩があります。
私は島根県立益田高校に入学してすぐ、五月だったでしょうか、一年生全員で長門峡へ遠足に行きました。五クラス二百人、益田駅から汽車に乗って長門峡駅で降り、渓谷に沿ってぞろぞろと歩き、詩に出てくる料亭あたりで弁当を食べ、自由散策し同じ道をまたぞろぞろと帰りました。渓谷に沿ったどこかに、中也の碑があった記憶があります。いま一度行ってみたいと強く思っていますが、膝を痛めており、残念ながらいましばらくは無理です。
長門峡とは詩で私が三十五歳のとき、男声合唱組曲「冬の日の記憶」のなかで再会しました。この組曲は私が指揮していた男声合唱団「東京オルフェオン」が銀行員で作曲家の多田武彦さんに委嘱したものです。詩は中也の詩五編によるもので、そのなかに「冬の長門峡」があったのです。日本の男声合唱団は多田作品が大好きで、いまも歌われているようです。ちなみに、オルフェオンが合唱団OMPになり、現在の合唱団響になります。
中也の生家は、山口線の湯田温泉駅から十分くらい、私の実家も駅から十分くらいでした。益田に住んでいる頃は中也の時代とおなじで、汽車は蒸気機関車でした。鉄の塊のような蒸気機関車のシュッーシュッーと吐く音や遠くまで長くわたる汽笛はいまでも懐かしく思います。中也の詩にも汽笛がうたわれています。「山の近くを走りながら、母親に似て汽車の汽笛は鳴る。夏の真昼の暑い時。」(夏の日の歌より)
いまは山口線は味気ないディーゼルカーになってしまいました。現在の萩・石見空港の無かった頃、東京から帰省する際には、新幹線の小郡(いまの新山口)で山口線に乗り換え、湯田温泉駅、山口駅、長門峡駅、島根県に入り津和野駅、そして終点益田駅で降ります。
いまも山口線は中也を結びつけてくれていると私は思っているのです。
そして、合唱オペラ「中也!」を通して、佐々木幹郎さん、西村朗さん、浅井道子さん、成瀬一裕さん、中村眞理さん、しままなぶさん、そしてなによりも、オルフェオン、ミニヨン、プリエールの三つの合唱団から始まり歌い演じる合唱団響のみんなが、あらためて敷いてくれたレールでより強く繋がったのです。
ほら、中也は私たちのすぐ脇にいますよ。淋しそうに、でも友達になりたくてしょうのない顔をして。
つれづれに
〈按(あん)ずるに一生は一升か,飲明かすべし。一代は一台か,乗り暮らすべし。〉斎藤緑雨(りょくう)。
忙しい日々が続いている。10月3、4日、ベートーヴェン「ミサ ソレムニス」。25日、「メサイア」。11月1、2日「大船渡公演」。8、9日「ベジャール第九」。15、16日「コロ・フェスタ仙北」。そして今日の「合唱団響」。12月も9つの本番が続く。さて飲明かすか、乗り暮らすか。
昨年のちょうど今頃、「とにかく、合唱団響とコーロ・カロスは団員を増やす」と宣言した。「ただし、上手下手は関係なし」とも付け加えた。なんと、その通りになったのである。カロスは60名超えで「メサイア」を初めて体験し、合唱団響は90人で歌い、そして踊る(?)のである。
カロスの「メサイア」はどうにかなったと思うが、さて響はどうなってしまうのか。
1年前に初演された寺嶋作品も、今回初演する池辺作品も、作曲者のものすごい力を感じる。上手下手が集まった団には、音程とリズムなどの交通整理からが大変なのである。それに「カーペンターズを歌う」はずが「カーペンターズを踊る」はめになってから、一部酒太りの団員にはかなり酷なはずである。練習で喉が渇くのでまた飲む。本番で舞台が壊れたり、怪我人が出ないよう、いまはそれだけを願っている。
「カーペンターズ曲集」を編曲した南安雄は一昨年他界された。「チコタン」「日曜日」などの合唱の名作を残しているが、合唱からオーケストラ作品の名編曲家でもあった。私も縁あって長きにわたってご一緒する機会をいただいた。この作品も私から氏へお願いした思い出深い作品である。あらためてご冥福を祈りたい。
畏友、池辺晋一郎、寺嶋陸也との協働した場、作品をあげれば暇無い。今回の作品、演奏は深く強い私たちの信頼の証しである。今後も演奏し続けたい。時間がこれらの作品の心髄を明かしてくれるだろうから。「詩と音楽が拮抗する」とはこうした作品を言う。
そして、YASUKOさんありがとう。すばらしいダンサーであり、振付演出家でもある。彼女から団員たちは一生つき合う自らの身体との向き合い方を学んだはずだ。そして、踊ることは生きる表現でもあると。
観客の皆さまも楽しんでください。笑ってください。按ずることなく。それでは。
、、、不安多爺のつぶやき
今年8月、9月、10月は合唱団響は栗友会の中心団体のひとつとして、過去にない忙しい日々を送った。8月のサイトウキネンの3回のオネゲル「ジャンヌ・ダルク」。9月は2回のブラームス「ドイツレクイエム」、10月は東京と益田(島根県)でのヴェルディ「レクイエム」と。しかもそれぞれがクオリティの高い充実した演奏だった。「ジャンヌ・ダルク」はすでにNHKのBSで放映されたので観られた方も多いだろう。
私は島根から22歳で上京し、二期会合唱団でオペラ中心に、また東京混声合唱団で70年代のいわゆる前衛音楽を、プロ合唱連合でオーケストラ付の大合唱を体験した。なにより作品だけでなく、カラヤン、ニコラ・ルッチ、サバリッシュ、マタチッチ、若き日の小澤征爾など世界的な優れた指揮者に出会えた。
30歳で合唱指揮者として細々とスタートしてからは、アマチュアイズムを大切にしながら、自分の合唱団員には、いい作品といい指揮者に出会せたいと思っていた。
私は島根大学という所謂駅弁大学しか出ていなく、学歴も人脈もない人間が、その夢をかなえるためには、当時は合唱コンクールで名を上げるしかなかった。それは尊敬していた早稲田大学出身の故関屋晋先生のアドヴァイスでもあった。
50代初めにようやくコンクールで得たもの失なったものの整理が私の心臓の手術によってでき、オーケストラとの協演が叶い、夢だったいい作品、いい指揮者と私の団員たちが出会うことになった。8月の小澤征爾、山田和樹、9月のクリスチャン・アルミンク、10月の上岡敏之と、いま。
合唱団響は昔OMP時代にコンクールで何回か金賞を戴いた。いまの響は都大会で負けるだろう。でも私はいまの響が大好きだ。自由で温かく、おじさんもおばさんも若者も仲がいい。OMP時代の団員には、コンクールのきつい縛りから解放された喜びがある。音楽だけに向き合えばいいのだし。
響にとっては久しぶりのシアターピース「echo・海の少女」。原作・台本・音楽のすべてが素晴らしい。まさに響のために、林光先生への愛のために書かれた作品です。
ヒカル海にいる少女。今日のトリフォニーにいるヒカルさん。私たちはファンタジーの中にだけ自身の存在を知るのです。海の少女とヒカルさんと一緒に。
今日、そして明日へ
昨年のTokyo Cantatで合唱団響は、エルヴィン・オルトナーの指揮で今回演奏するF.メンデルスゾーンのモテットを4曲演奏した。オルトナーはメンデルスゾーンを所謂ロマン派の作曲家としてより、むしろバロックの流れにそった作品として演奏をした。古楽器でベートーヴェンやメンデルスゾーンのシンフォニーを演奏するのに似ている。早めのテンポで音楽への切込みが鋭い。リハーサルでも本番でもわれわれはオルトナーの音楽を未消化のまま終わった。ヨーロッパの人にとってはすぐ側にいるメンデルスゾーンは私たちにはまだ遠い存在であることをあらためて知らされた。
そのオルトナーは3・11のため、4月3日14時46分開演でブラームスの「ドイツレクイエム」をウィーンのステファン教会で「希望」と題して、アーノルト・シェーンベルク合唱団と共に演奏を行った。
一昨年、畏友の作曲家新実徳英が、佐藤聰明氏に曲をお願いしたらどうか、という話しをしてくれた。あ!音符のまっ白な作品が多い人だ、すぐ思った。そうしてお願いしたら、昨年の秋、実に透明な楽譜をいただいた。「秋の曲」と題された古今和歌集より秋に寄する三首に作曲された美しいどこまでも澄みわたる作品である。可能な限りノン・ヴィブラートで二分音符=22〜25のテンポで歌うように指定されている。覚悟はしていたものの老頭児化している響には何よりも難しい。イメージと現実とのギャップで放念している。作品は合唱作品のほとんどない作曲家の渾身の名曲である。多くの合唱団に演奏してほしい。未知の合唱の世界へ導びかれていくだろう。
22世紀につなげたい私が選ぶ邦人合唱作品「混声編」を公募した。今年の2月末に締切ったところ、三善晃作曲の「生きる」が選ばれた。この曲は合唱団「松江」2000で私の指揮で初演された。この曲への想いを作曲家は次のように書いている。「1900年代最後の日、逝った友人たちを想いながらピアノを弾き続けているうちに、その音の流れのなかに谷川さんのこの詩の詩句が聴えてきた。ここに謳われるこの世の風景を、彼岸の人々はもう見ることができず、その彼岸を私たちはまだ見ることができない。だが、死者と生者を隔てているものは鏡のようなもので、その両側には二つの世界が照応しているように、今は思える。この世の悼みと祈り、あの夜の記憶と安らぎが、その鏡の両面に、手を合わせるように映っているのではないかと。」
この曲のほか、「死んだ男の残したものは」「大地讃頌」「地球へのピクニック」などが選ばれ、のち、3・11と向かい合うことになる。
今年は武満徹の没後15年になる。彼の「ソング」の中から、「MI・YO・TA」「死んだ男の残したものは」以外、まだ合唱曲になっていないものを寺嶋陸也にお願いして合唱作品として皆様に聞いていただく。
武満が音楽に進むきっかけとなったのは、シャンソンからだった。彼には常に「うた」が体の内にあり亡くなるまで歌い続けていたのだろう。そうした「うた」のいくつかは彼自身の手で合唱曲になり、いま世界中で歌われている。寺嶋の「Songs」も多くの人に愛され歌い継がれていくだろう。この11月25日の女声合唱団「彩」の演奏会では女声合唱曲に編曲され、演奏される予定だ。
この原稿を書いている時点ではまだ終わっていないが、コーロ・カロスが6月8日、9日と合唱オペラ「アシタノキョウカ」〜泉鏡花に歌う〜を初演する。そうしたら私も「明日の響か」と、毎日思う苦痛に満ちた日が始まるだろう。
合唱団「響」もOMP時代から数えると今年で30年目になる。
愛する「響」の仲間たちよ。たとえ叩きのめされようとも「あしたのジョー」ならぬ「明日の響」を夢みて進もう。このような時代だからこそ。
'11.6.3
保谷自宅にて
愛
私は変化である。昨年3月、ICD(植込み型除細動器)を埋め込み、器械によって生かされている現代形変化である。10種類の薬を餌に(アルコールも少々)、7つのビョウインを回っては回向を受け、しかし、時々はガッショウダンに迷い出ては、歌い踊り狂う、世にも迷惑な変化である。
何とか自ら成仏せんと欲っし、ブラームス、バッハ、それに没後100年に当るグリーグの有難き作品を持って奏することにした。
これらの作品を見事奏し得れば、かならずや天は私を幸せに召し給うと考えるが、どうも、まだまだこの世に変化のまま残される事になりそうである。いやはや情けなや。
変化自ら思うに、成仏、あるいは天に召されて不在になってしまうより、変化でもよいから、この世に在していて欲しい、と願う生者がおるのではあるまいか。ことさら愛しき人の場合なれば、どのすがたでもかまわない、せめて夢の中にでも、と願うのではあるまいか。
ブラームス、バッハ、グリーグの作品はいずれも愛の歌である。神の愛、男女の愛との違いはあれど愛の歌である。
しかし、三善晃の作品ほど、作者自らを引き裂き、嗚咽し、折れるまでも手を合せ、変化を愛しむ愛の歌は他にあろうか。
愛しき人よ、変化になろうとも、かならずや、この世に存し給え。それこそが、真の愛ではあるまいか。
'07.10.31 栗友会事務所にて
個人的なお便り
辻さんが去って1年半、関屋さんとはほんのこの前のお別れ。
プログラムの1ページをかりてお便りします。
あの時代、申し合わせたように、コンクールで、合唱連盟や指揮者協会で、国技館の第九や「ヤマトタケル」など何かにつけ一緒でしたね。
そうした場合では、10才若いボクは2人にペランペランの理屈で挑んだりもしました。ひとりは少し本気で相手をしてくれ、もうひとりは軽く往なす。それでもボクは充分満足でした。
2人は静かな四季折々異なった表現を見せる2つの静かな山でした。
戦後のあの時代に、合唱指揮という社会では仕事とは認めてもらえない時代に、音楽と歌う仲間を信じ、裏切られ、それでもまた信じて生き抜いてきましたね。
やがて、世の中は安定をはじめ、2人の名前も売れ、仕事も増え、家族や仲間とのゆるぎない基盤もでき、夢もそれぞれ叶い、それでも2人はどこにでも出かけて合唱を愛する人に語りかけ、そしてそのまま向こうの世界へ去ってしまった
辻さん、関屋さん、ボクは淋しいかぎりです。辻さんの鉄板ソバ焼き型指揮も、関屋さんの合唱団より大きなうなる歌声も、見ることも聞くこともできません。
でも、40年以上も一緒に生きた2人の笑顔はいつもボクの心にあります。いつだって話せます。
今日はむかしOMP、今は響という名の合唱団の演奏会です。2人が好きだった武満徹のメモリアルホールで歌います。あいかわらず合唱は雑ですが……。
辻さん、関屋さん、ボクももうすぐ行きます。それまでは2人が命がけで愛したように、ボクも命をかけて愛する合唱団となんとか生きていくつもりです。ちょっと待ってて下さい。
ここに、2人は聞きに来てくれているかしら。この演奏会、辻さん、関屋さんに捧げます。
あっ! 迷惑だったらごめんっ。
'05・5 26 保谷
蟻
「持続する根と、変化する勇気があれば、それはかならず進化につながる」と、ある対談で話したことがある。
1970年東京オルフェオン(男声)、71年アンサンブル・ミニヨン(女声)、73年クール・プリエール(混声)と創立し、76年上記3団体で合唱団O・M・Pとして活動を始める(三善晃「五つの童画」を演奏するために)。81年合唱団OMPとして再出発。2001年合唱団響と改称。
いま合唱団響は、オルフェオンから34年持続し、変化し、進化し続けて80名の団員を擁し、常時60名以上で活動している。
今年に入り、私は響を、運営、技術、演奏会の3つのセクションに分け、団員はどこかに属し、ディスカッションを盛んにするようお願いした。
響には入団テストはない。だれでもお見合い方式でお互いに気に入れば入団できる。故に合唱体験も、音楽的力も、団に対する意識もばらばらである。であるから、ディスカッションを通して、いまの自分が響に貢献できることを何でもいいから見付けてほしい、と思った。
運営系は出席率向上委員会が活動し、技術系は日々の練習の見直しを、演奏会系はパーシモンホールの周りの家一軒一軒に宣伝を始めた。
蟻の集団であるいまの響は、個人の力は弱いが一緒になって大きなものを動かそうとしている。私のバイブルである「五つの童画」と、この団の団員として多くの編曲で貢献してくれた信長貴富さんの新曲を彼らと演奏できることは、私は本当に嬉しい。この4月から突然忙しくなった私をじっと待ってくれ、懸命に歌ってくれる彼らとの時間はなによりも大切なのである。
360°合唱?
私は360°見渡せる合唱の在り方を夢見てきた。だが、合唱指揮者になって30年余り経たが、広げた扇でいえば10分の1も見渡せてはいないだろう。360°合唱など夢のまた夢だ。
でもね、音楽は何を聴いても演奏しても歌っても楽しい。
だから何でもやれば良いというものではない。
はい、それも分かっている。
またでもねですが、やってみたいのですよ、私は何でも。
美空ひばりも唱歌もバードもブラームスもシアターピースも白いうた青いうたも両界真言も楽しい。ア・カペラもピアノと一緒もオーケストラとの協演も嬉しい。最近バルトークが魅力的で、ステレオを替えてからジャズも面白くて。
これまで、私の内のどこかでひとから少しでも良く見てもらいたい、愛されたいと思っていたのだと思う。子供の頃、表彰されたり、先生に誉められたりしたら親が喜ぶ、その親を見るのが嬉しかった。また悲しむ親を見るのは辛かった。この5月17日、私を実の子同様愛して育ててくれた母も他界した。多分、それは私にとって、悲しい開放だったのだろう。
合唱団響になって2年半になる。彼らと私は360°合唱を夢見て、楽しく開放された合唱へ共に歩み始めている。一緒に自由になるんだ。
'03.6.21
保谷 自宅にて
思いきって
いづれ書いてみたいな、と思っていたので指揮者の本音のようなものを書いてみます。
まず、指揮者は合唱団を愛しているのではなく、団員を愛している、ということです。ですから、一番辛いのは辞めて去って行かれることです。特に信頼していた人が、私自身には理解しようとしても、理解できない理由で去られたら一生の心の痛みとなって残り続けます。ですから、この苦しみに打ち勝つ心を作るのも指揮者の大切な修業なのです。(マダ、ダメデスガ)
また、自分の力、あるいは才能と向き合うのも辛いことです。耳の悪さ、指揮の未熟さ、語学力の拙さなど、それらを自分の育った環境や、出身校のレベルなどで言いのがれるのは、我ながらみにくい。ですから、私は日本語を大切にするしかないのです。(日本語モ、難シイ)
そのくせ、他の指揮者に決して負けたくない、という意地だけは強いのです。先輩にも後輩にも。私の場合はコンクールがそれを、助長したと思います。今でも意地はありますが、自分自身との戦いであることだけは、少しずつ判ってきました。(カッコイイ!!?)
こんな私を、よく知ってくれている合唱団が「響」です。だからと言って「甘えるんじゃないよ」という態度も常に示してくれます。「響」にとっての2回目の演奏会は、プログラムが少々テンコ盛りになりましたが、私自身反省しながら面白がっています。
ここまで書いていたら、なんだか夢のようなものが心にわいてきました。やっぱり「響」はいいなあ。もうちょっと一緒にやろう。
Kyoに
まず「きょう」という響に心をひかれました。そこで「きょう」という色々な漢字を思い浮かべてみます。
東の京に住む合唱狂、今日の音楽を創り歌い、興味津津饗宴大好、共存共栄を求め、世界に橋を架けるため強力に協力し、侠気をもって香車のごとく進む男たち、恭敬でしかも嬌艶なる女たち、21世紀は共生の世紀でありたいと希い、なにより自分たちの教養を高め、郷の音を求める合唱団「響」を郷とする人たちの集まり。
私にとって、OMPという呪縛から自らを解くことは、残されたどれほどかの時間を生きるのに必要でした。だから名称を変えれば解決すると思っているのではありません。歌舞伎役者のように、鰤のように名を変えることによって、新まりたかったのです。
20年以上続いたOMPにもその名にも、見えない魔物が棲んでいるかもしれません。それはそれで可愛がるしかないでしょう。
私も来年、還暦を迎えます。赤いちゃんちゃんこを着て老人の仲間入りをし、皆さんに愛される人間にならなくてはいけません。
今日は虚心坦懐の心境で、「響」と向かい合いたいと思っています。
'01.1月19日 頸椎の異常が見つかった日
西東京市 下保谷にて
おもい − それぞれのうたへの
今年2000年は来年くる21世紀のアウフタクトの年になる。しかし、21世紀になっても、となりのミヨちゃんはひとつ年を取るだけで、私たちはいつものように元気で遊んでいてほしい、と思うだけであり、もし、歌が上手なミヨちゃんなら、好きな歌を歌い続けてほしい、と願うだけである。それは、ずっと言われている未来への不安からではなく、いつもの日常のなかでのほほ笑みのように、自然に浮かびくるのだ。久留智之の「ハミング バード」は、となりのミヨちゃん賛歌なのである。
私の祖母も父も明治生れ、母は大正生れ。昭和17年生れの私にも、彼等の時がそのままに繋がっている。祖母は「ねんねんころりよおころりよ」、父は「月が出た出た月が出た」、母は「ブナの森の葉がくれに」がそれぞれのうた。私のうちには時折、それらのうたが彼等の声で、どうしてか家内の声もまざって歌い合う。三宅榛名の「バラード」にも、知らない人の知っているうたに、まざりこむ。
一昨年のクリスマスから昨年の正月にかけて、スペインのバスクを中心に演奏旅行を行っていた。その旅と、私のためにバスクの作曲家Bustoが作曲してくれた「O magnum mysterium」。時と国を超えての友情の証。
私たちのピアニスト、田中瑤子は昨年9月11日、他界された。OMPにも私にも欠くことのできないピアニストであっただけに、いまだ心の穴は大きく空いたままである。いつも辛い時はかならず側にいて下さったのに。いまは、私たちにできることは花とうたを、愛をいっぱいこめて捧ることだけだ。あなたのような優しい白い花とVictoriaの「Requiem」を。
'00.1.12 池袋・事務所にて
トロサよりの便り
一昨日、この町は日本の時雨のような雨で私を迎えてくれた。ばかな雨、とこの地方では言うらしい。傘を差すほどでもない、と思って出かけると、いつの間にか下着までびしょびしょに濡れ、おまけに風邪までひいてしまう事からつけられたそうだ。
しかし、昨日からはすっかり晴れあがり、ホテルの5階の私の部屋からの景色は本当にすばらしい。どこまでも続くなだらかな緑豊かな山々、それぞれの窓に花を飾った赤い屋根の家々、すべてがどこまでも透明で、目にくっきりと映えている。
私は、いま、スペインの北東部、バスク地方の人口2万人の町、トロサに居る。オリア川の蛇行に沿った中世をそのまま残した美しい町だ。毎年、10月の終りの週、世界的に有名なトロサ国際合唱コンクールが町をあげて開かれる。記念すべき30回目にあたる今年は、五大陸がテーマで、出場する合唱団、審査員も多彩だ。
ノールウェイ、フィンランド、スウェーデン、イギリス、ハンガリー、ドイツ、チェコ、スペイン、バスク、フランス、南アフリカ、ニュージーランド、フィリピン、ヴェネヅエラ、アメリカ合衆国、そして日本からは合唱団ゆうか。審査員はタピオラ少年少女合唱団のポヒョラ、作曲家のブストをはじめスペイン、ドイツ、イギリス、南アフリカ、ヴェネヅエラ、日本(栗山)の8人。英語も話せない私が選ばれたのは、1994年のコンクールでグランプリを戴いた縁だろうか。
ここでは始まったばかりのコンクールの内容を書くつもりはない。ただ、日本円で五千万円近くもかかるこのコンクールがどう運営されているか興味を引かれる。
ほとんどの資金は国、州、県、市、企業、等から受けているということだが、一番大切なイヴェントを支えている全ての人はボランティアなのだそうである。つまり五千万円にはほとんど人件費は含まれていないわけだ。何人かに話しを聞いたが、それぞれ仕事を持っており、仕事の間に、あるいは休んでコンクールのために働いている。中心になる数人は寝る時間もわずかだと聞いた。それは始まってから30年変っていない。ヨーロッパの文化はこうして守られ、創られていくのである。
日本を遠く離れ、もうすぐ行われるOMPの演奏会を考えている。トロサにはずっと演奏用のホールはなく、30年間映画館を使用している。オープニングでのキングス・シンガーズもそこで歌った。OMPは、トリフォニーホール。トロサでは観客は世界中から集まっているが、一週間を通じてもほとんど満席にしてくれるのは市民、しかも批判的なまなざしではなく心からの拍手と声援で励まし、応えてくれる。日本では…。コンクールを支えるほとんどの人たちは合唱団で歌っている。わがOMPの団員はこうした活動にどのくらい協力的だろうか。トロサではコンクールを忘れるくらい楽しく、感動的だが、OMPの演奏にそれはあるか。やはり世界中どの合唱団も指揮者で差ができてしまう。ああ、私は…ああ。
プログラムも新聞も道の標識もスペイン語とバスク語。町では黒いバスクベレーを被った人にかならず出会う。優しく、親切な人々。バスクはフランシスコ・ザビエル以来、日本との関係の深い土地。私は3回目だがまた戻ってきたい。バスクは私のヨーロッパの故郷になってきている。'98.10.28 トロサ、オリアホテルにて
屋台
宇都宮に通い始めてもう20年近くなります。今年は月に2度くらいしか行けなくなりましたが、4・5年前まではほとんど毎週行っていました。通い始めた頃は新幹線はなく、寝台車の特急で帰っていました。7時に練習が終り、宇都宮大学の近くで飲み、プラットホームで立食いソバを玉子入りで食べ、特急に乗るのです。5・6年経って宇大のOBを中心とした合唱団を創ってから、それまでのパターンが変化しました。大学の後にその合唱団の練習をし、9時半で終り、駅前の宮の橋の側の屋台で飲み、開通した新幹線の最終10時40分発に飛び乗って帰るようになったのです。
宇都宮駅前の宮の橋の屋台は6・7軒ありました。その向かって右から3番目にある「ももや」が私の行きつけの屋台でした。屋台はリヤカーの形をしています。荷を積む所におでんの入った四角い鍋があり、引っぱる手の所に折りたたみの台があり、囲りのベンチに詰めて座って12、3人くらいのスペースで、長方形のテントで囲んであります。ビール、お酒、焼酎、食べ物は、おでん、にこみ、やきとり、ラーメンがメニュー。それも「ももや」以外で味わえないうまさ。
屋台の魅力は食べ物のうまさ、安さだけではありません。人の情けの温もりの小さな宇宙がそこにだけあるのです。宇都宮の冬は寒い。しかも、川の側。小さな石油ストーブとおでんを温める火と、ママが居ればそこはどこよりも温いのです。
宮の橋は所謂都市開発とやらで広くきれいに整備され、屋台は外観を損なうとか不衛生とかで、駅から離れた元駐車場に移されてしまいました。「ももや」も宮の橋の側で移転反対の仲間たちの支援で頑張っていましたが、結局駐車場に移ってしまいました。駅から離れたため行く回数がめっきり少なくなりました。その事もさびしいのですが、「ももや」で飲んでいてもさびしいのです。おいしいし温もりは変わらないのに。
日本全国から屋台がどんどん消えて行っています。私には美観という名のもとの日本人、東洋人の心を無視した形骸化に思えてなりません。アジアを西洋化されるのはたまらない。汚いと思われても犇めき合ってもいい、そこに私たちのエネルギーと心のふるさとがあると思うのです。この原稿を書いている机の上に、昨夜「ももや」のママがくれた美しく熟した柿があります。この色、この温もりが屋台なんだなあ。
('97.10.22 宇都宮のホテルで)
秋、冬、春
昨年の9月、53年間孔が開いたままほうっておかれた心房に、ゴアテックスを宛てがって塞いでもらった。心臓が動いていたら縫い難いので、40分ばかり人工心肺に替りをさせ、止める。止まったとたん、クシュッと小さくなったそうである。少し肥大をしていたらしい。孔の大きさはピンポン玉くらい。人並はずれた私の体を、これまで一生懸命によく支えてきてくれたものだ。麻酔が覚めた後、医者から聞いた家の者の話を聞いて、我が心臓ながら、そっと愛でてやった。
術後一週間くらいの間だっただろうか。肉体的には当然辛いのだが、心は純一無雑で何とも喩えようのない歓びを感じていた。しかも、水がそのままゼリー状態になったようなこころが観えるのである。麻酔の酔の部分が残っているからかな、とも思ったが、11月、ずれた胸骨をもう一度くっつけ、癒着した胸膜を剥がす手術をしたその後は、ただただ苦しさと絶望感しかなかった。
やはり、あの澄みきった至福感は、心臓を止め仮死を体験したからだろうか。
「1月は往ぬる、2月は逃げる、3月は去るちうて、3学期はすぐ終わる」。小学校教員だった父の口癖。でも今年の冬は永かった。特に閏の2月は寒く永く、冷えに冷え、心も体も痛んだ。父が往った6年前の2月は、一度大声を上げて泣くだけで済んだのに、今年の2月は……。
2月、武満徹の追悼番組を見終えぬうちに、私の体の底の底から物凄いエネルギーで噴き上がってくる、「うた」を歌いたい、オレの「うた」を歌いたい、希いが塊となり。
4月、待ちに待っていたはずの桜もいつの間にか散り、初夏を思わせる晴れた日の午後、大岡山に柴田南雄邸を訪問した。合唱専門誌ハーモニーの対談のためにである。何年も前から訪れたかった柴田先生の書斎、先生の遺影のすぐ前に座らせて頂く。初めてのはずなのに時が穏やかに過ぎていく。先生とコラボレーション(共働)なさったお2人、純子夫人と田中信昭先生と。
その夜、一年に数回も夢を見ない私が夢を見た。柴田先生がじっと私を見ている夢。
次の朝、幸せだった。
'96.4.30(火)
13回目の演奏会
昨年の暮、どうやら心臓の壁に孔が開いているらしい、と医者に通知され、この5月の連休の後、心臓のカテーテル検査を行った。
栗山さん、間違いなく心房中隔欠損症ですね。孔は4cmもあるりっぱなモノ。肺できれいになった血の70%が孔から右心房に戻っています。
そうすると、186cm、80kgの私は、残り30%の血液でまかなわれているのか。
臍で母親と繋がっている胎児の心臓は、室も房も孔が開いているらしい。つまり、私は半分胎児のまま53年間、指揮したり酒を飲んだりしてきたわけだ。
OMPが新実さんに委嘱した作品「魂の舟」は、今の私を自然に受け止めてくれる。それが死をテーマにしている、というだけでなく、生れる以前から、現在は意識下の深い奥にある私が、肉体という遺伝子の一時的な舟が亡びた後、宇宙の意志に還るまでを、新実さんの音を通して感じ、見ることができるからである。それには、多分、半分胎児のままである心臓と、30%の血流のみで生かされている状態が働いているのだろう。
1から2の間に無限の数があり、半音の幅にも無限の音があるように、生と死の間にも無限の生と無限の死とが交差し合っているように思える。
死んで500年目のオケゲム。50年目のバルトーク。そして、50年前に数百万℃に達した一瞬の閃光。全て、2に、あるいは半音上の音に行き着くことなく、無限の数と時を持ったまま、私たちと今日を迎える。
'95.5.22
歌の消息 - 少年時代
私の裡の歌の記憶をたどってみる。まず、母のそれ。顔と話し声は思い出せるが歌は全く記憶にない。私の母は私が七才の時、長い患いの後、他界した。母を知っていた人たちは、音楽が好きで、いつもきれいな声で歌っていた、と言っているのに。子供の頃、我が家で聞く歌は、父が酔っぱらってぼそぼそ歌う炭坑節と軍歌、祖母が妹や弟に歌ってやるしわがれ声の子守歌ぐらいのものだった。
小学四年生で詩のようなものを作った。「すすきのほがゆれている ゆらりゆらりとゆれている」。担任の岩崎先生が曲を付け、学級新聞に載せられ、音楽の時間に皆で歌った。歌とかかわった初めての体験。
中学一年生、いとこにハーモニカを教わる。ハーモニカの箱に入っている音階図を見て練習した。そのうち、適当にふいているとメロディーが出来てくる。五線譜に何とか書き取って言葉を付ける。高校一年くらいまで、勉強している振りをしてひそかに熱中した。
中学三年で町の学校へ移った。音楽の時間に先生が一人一人の声のテストをし、半ば強制的に音楽部へ引っぱられた。NHKの合唱コンクールへ出るのが目的。地区予選であっさり負けたが合唱が面白くなり、今に至る。その年の課題曲は「ふるさと」、自由曲は「人魚の夕べの歌」。合唱での歌の最初の記憶。
同じく三年の秋の文化祭。三年生九つのクラスが合同で合唱をすることになった。曲は「浦の明け暮れ」。三番で歌う男声の独唱者に決まる。本当は指揮をしたかったのに。指揮は同じ音楽部、野球部の部長そして同じクラスの級長だった高橋君。その高橋君も高校を卒業して一年もしないうちに他界した。
自分の記憶の中の歌の消息を訪ねる旅。それは去った人や忘れかけた風景に出会わせてはくれるが、どこか堅苦しく、時には厳しく私を拒み、決して懐深く優しく私をくるまいはしない。指揮という仕事が私の心に壁を作っていて素直になれずにいるからか。多分、歌は私に見付けてもらいたがっていたはずなのに。でも、諦めるな。今日の旅で、ひょっとしたら出会えるかも知れないのだから。
'94.5.11
列車を待つ間
日は慌ただしく過ぎて行く。三月の<青い鳥>、<コーロ・カロス>の定期演奏会。四月は栗友会の総力を結集しての<三善 晃合唱作品の夕べ−地球の詩−>、恒例の<ヤマトタケル>、<日本国際賞>のアトラクション、福島での<ワーク・ショップ>。五月の連休は3団体の合宿、昨日は出雲で<文化活動を通じた高齢者の生きがい活動と社会参加活動の在り方>という長い題の懇話会、今日は大垣で合唱団MIWOの最後の練習。全て望んでいた事とは言え、なんと落ち着きのない日々。
落ち着きがないと言えば、昨年亡くなった父が、よく私を叱っていた。「お前は落ち着きがない。同じ所にじっとしておられない。いつもけそけそしている。調子がよく、すぐ人の尻馬に乗る。」
お父さん、あなたの息子は何年経っても成長していません。
昨年6月、OMPと私は、米国オレゴン州ユージンで開かれたオレゴン・バッハ・フェスティバルに招待された。そのフィナーレを飾った、ヴェルディなど13人の作曲家による<ロッシーニのためのミサ曲>の練習と本番で体験したものは、一生の宝になる貴重なものだった。
まず、指揮者のヘルムート・リリンクの自由で豊かな音楽に満ちた楽しい練習。そして、共に歌ったプロの集り、フェスティバル合唱団のひとりひとりの優しさと、とびっ切りのうまさ。本番の燃え上がるような感動。打上げでの底抜けの楽しい楽しい大騒ぎ。
そうした想いが今回のプログラムにつながった。マショー、プーランク、メシアン、細川、ブルックナーと、どの曲も練習していて楽しい。来年からは、また委嘱を中心としたプログラムになるであろうから、今年はOMPにはちょっとしたオアシスなのだ。
この演奏会のため、新潟や長野、甲府、宇都宮から練習に通ってくれるメンバーのがんばり、子育てのためお休みしていた母親メンバーの復帰も、私にはとてもうれしい。OMPが生きかえってくる。
おや、そろそろ新幹線の発車の時間。コーヒー一杯で2時間近くねばってしまった。昼食は車内の楽しみにしよう。
新大阪駅 Cafe Bonにて
'93.5.8
オレゴンへの・愛?
この六月、合唱団OMPと共に行くオレゴン・バッハ・フェスティヴァルについて、あまり日本では馴染みがないので少し記す。
このフェスティヴァルは一九七〇年、世界合唱連合会長ロイス・ザルツマン氏と、バッハの権威ヘルムート・リリング氏によって始められ、以来、リリング氏を音楽監督におき、国際的な夏の音楽祭として発展を重ねて来た。
二三回目の今年は、リリング氏による指揮法の講習会、バッハのロ短調ミサ、数々のカンタータ、ポーランドの大作曲家ペンデレッキの自作自演(チェロ協奏曲)、メトロポリタンオペラのヘルデンテナー、ゲイリー・レィクスの独唱会、ベルリンからの弦楽カルテット等、多彩な出演者、演目により繰り広げられる。
合唱団OMPはラトヴィアのプロ合唱団アヴェ・ソル(宝塚室内合唱コンクールで三部門の一位を圧倒的なうまさでさらった合唱団)に続いて外国からの二団体目の招待合唱団になる。演奏曲目は、六月二八日リリング氏指揮のフェスティヴァル合唱団とのジョイントという形で、三善 晃「縄文連祷」「五つの日本民謡より」、武満 徹「さくら」などの現代作品。シューマンの二重合唱曲「Talismane」より「Gottes ist der Orient, Gottes ist der Occident」をリリング氏指揮フェスティヴァル合唱団(オーディションで選ばれた五五名のプロフェショナルの集まり)と合同で。また、七月三日のエンディングコンサートでは、ロッシーニ生誕二百年に因み、ヴェルディを中心に当時のイタリアの十二人の作曲家により作曲された「ロッシーニのためのミサ」−フェスティヴァルオーケストラ、合唱団、カナダ、ドイツ、アメリカからのソリスト、リリング氏指揮−の記念すべき演奏にも加わる。
男声合唱団東京オルフェオン、女声合唱団アンサンブル・ミニヨン、そしてクール・プリエールとそれぞれの創立時から、そして合唱団OMPとして引き続いた今日まで、私の意として、生きる証として、活動し、それぞれの場で表現してきた。その意の中のひとつに、海外で日本の優れた作品を演奏したい、それも合唱祭やコンクール等でなく、音楽祭あるいはリサイタルで、という夢があった。ようやく、まず、オレゴン州ユージンの二五〇〇名収容のSilva Concert, Hult Centerで、叶う。
オレゴンから、愛、を受け、六月二四日オレゴンへの愛をいっぱい抱いて出発する。いい旅になりますように。
妹
私は太平洋戦争の始まった年、昭和十七年に島根県の西部、益田市から山に入った美都町大字都茂という小さな部落で生れた。島根県は戦争中、一度も米軍の空襲を受けたことのない県でもあり、私自身戦争というものの直接の記憶はない。ただ、多分終戦ま近かだったと思うが、近所の私をよくかわいがってくれた人の出征を、小さな日の丸を持って見送ったのをかすかに覚えている。
しかし、戦後の物資不足は確実に私たちを襲った。昭和二十一年、病弱だった私の母は妹を生んで間もなく肺病に罹り、母乳が出なくなり、ミルクを入手する事が困難だったため、妹はお米の磨ぎ汁と貰い乳で育てられた。母は私が七才、妹が二才の時三十三才で死んだ。カルシューム不足だった妹は三才まで立てず、後ろ向きにいざることしかできなかった。その妹が初めて立って歩いた日のことは、今でも忘れない。
父は教師で、その頃、山口県に近い鹿足郡朝倉小学校という全校一二〇人ほどの小さな学校の校長として奉職していた。その学校の玄関のコンクリートにござを敷き、妹の好きなママゴトをして二人で遊んでいた時、突然立ち上がったのである。「おとうちゃん、おばあちゃん、圭子が立ったよ」と、学校のすぐ前にあったわが家まで校庭を走りぬけ、大声で知らせに行った。
妹は現在二児の母、益田市の小学校の音楽の教師をしている。死んだ母の体質を受けたのか、幼児時代の栄養不足からなのか、あまり丈夫でない。時々長い病気をする。しかし、母として、妻として、教師として懸命に努力をしてくれている。年に一度くらいしか会えないが、会う度に、初めて自分の足で大地を踏みしめ立ち上がり、一歩二歩と歩いたあの日の、少し口を開けたうれしそうな笑顔が重なる。
戦争から間接的に受けた私の妹の不幸は、他の人の、それも直接的に受けたものより小さいだろう。しかし、大きかろうが小さかろうが、妹は一生戦争を背おって生きていかねばならないことは事実だ。今一見平和そうに見える日本だが、戦争が巣喰ってきたものは深く続いている。どんな大義名分があろうとも、あんな愚劣な戦争は二度と起こしていけない。「子供の十字軍」に続いてOMPは今年「タロウの樹」を世に問う。それぞれにとっての戦争をみつめながら。
いつもの話し
昨年福岡で行われた第42回全日本合唱コンクール全国大会で、合唱団OMPは新実徳英のその年9月完成した「南の島(パイヌスマ)」を演奏し、かなりの物議をかもした。たとえば、合唱連盟の機関紙であるHarmonyの誌上で、審査員の移川氏は「……でも、もうちょっと違った曲でもよかったですね。」、皆川氏は「すべてがみごとですね。透明ですしね。しかしコンクールでこういう曲ばかり出るようになったら、ちょっと危険な傾向ですね。」、また、音楽の友誌上において評論家で合唱指揮者の日下部吉彦氏は「……作品としては、興味深い力作とは思うが、合唱コンクールの自由曲にとりあげるにふさわしい曲であるかどうか。」等々。
勿論、こうした批評は有難く襟を正して聴かねばならないが、私たちが「パイヌスマ」をコンクールで取り上げるにあたって、団員ひとりひとりがこの作品を優れた合唱作品として共感し、志を持って演奏したことも知って欲しい。そして"合唱愛好者"が多数全国から集まるこの大会を、世界に語れる新しい作品を披露し、審査員の先生方をはじめ多くの方々に聴いていただく場としても捉えていたのだ。間口が広く、奥行の深い合唱という世界を、自分の立っている場所だけで、全体を計り語る事の難しさを、あらためて知らされた。
明治33年(1900年)22才の瀧廉太郎は《春のうららの隅田川》で始まる日本人による初めての合唱曲「花」を発表した。ちょうど90年目の今年、新実徳英・西村朗はそれぞれ画期的な作品を世に問う。90年前の「花」は、当時は難曲であり演奏も苦労したと言う。今、合唱を所謂合唱としてでなく、日本人としての血を語るための現代の音楽として、二人の作品は私たちに技術的に精神的に持っている限度を越えて挑戦してくる。死を持っても受けて立たねばならないだろう。
日常の活動そのもの、いま在る自分そのもので練習し、演奏し、戦い、創り続けている合唱団OMPは、創成期を終え、発展期をむかえようとしている。'90.6.7
怒り、を。
一昨年、宗左近と三善晃による、海に眠る魂への献歌「交聲詩 海」。昨年、それの再演とエリュアールとプーランクによる、二次大戦下パリのレジスタンスの歌「人間の姿」。そして今年、同じ二次大戦下のポーランド、吹雪の中へ消えていった子供達の物語り、ブレヒトと新実徳英、青島広志による「子供の十字軍」。と、人間の尊厳を破壊する無謀な暴力への悲しみと怒り、そして平和への祈りと希いを、私たち合唱団OMPは歌い続けてきました。
人間は、とても悲しいことですが、先人のどんな戒めがあったとしても賢くなることは出来ず、また同じ過ちを犯す宿命を背負って生きている存在なのでしょうか。私たちは、現在また、天安門で起きた流血の悲劇を、遣り場のない悲しみと怒りで見つめています。それは40年以上も昔の話しでなく、フランスやポーランドという遠い地の話しでなく、ほんの数日前のお隣りの国の事実なのです。この4月、千葉大学合唱団に入団した中国からの留学生O君は、急ぎ中国へ帰り、家族の無事は確めたものの、多くの友人が無抵抗のまま殺戮されたことを知ったそうです。日頃、ユーモアたっぷりで皆なを笑わす陽気なO君、いま、彼の心中は察するに余りあります。
ベートーヴェン、ショパン、ヴェルディ、バルトーク、コダーイ、プーランク、トスカニーニ、カザルスなど多くの音楽家、また他の藝術家たちも時の無謀な権力に怒り、抵抗してきました。藝術は子供のように純粋で無垢で、夢と希望と慰めにあふれていますが、また、子供のようにまっ先に蹂躙されやすいものでもあります。私は、その弱いものに神を見、弱いものにより真を知らされます。その弱い子供や藝術に、本当の神の力が宿っているはずです。無抵抗で死んでいった多くの中国の若者こそ、真の力を持った人たちです。その力は、いま、私たちに勇気と希望を与えてくれ、人間を信じることを教えてくれました。あのポーランドの子供たち、天安門の若者たち。彼らを思うとき、多くの藝術家たちが訴え続けてきた平和への希いを、私たちは自分たちの可能な方法で受け継いでいかねばならないのです。微力、という力を集めれば、すべてに勝る力になることを信じて。平成元年6月7日
岩井からの便り
今、岩井海岸のいとう寮に来ています。5月2日、連休の間、こうした休みで賑わう場所にとっては束の間ののんびりした一日。気温は高いのですが窓からの風が心地良い、小鳥の声が煩いほど。遠くの潮騒の響き、どこかの大学のマンドリンクラブの合宿でしょうか、切れ切れに聞こえて来ます。本当に平和な、私に取ってはこの原稿書きさえなかったら幸せな時間が流れていきます。
先月の29日、栗友会300人の初めての顔合わせ練習があり、遅れに遅れていた「子供の十字軍」の作曲の見通しもつき、敬愛する演出家加藤直氏の腰を上げさすことも何とかなり、続いての30日、1日とコーロ・カロス、宇都宮ジンガメルの合同合宿も楽しく充実して成果を上げ、8月の松江での演奏会の弾みもつき、やれやれの今日なのです。ただ、明日から始まる合唱団OMPの合宿を思うと大変重い気持ちになります。(書きながら、このあたりから何回か溜め息が出始めました。) そうなのです。練習がいささか不足なのです。全て私が悪いのです。異常にさわやかな5月の今日に八つ当りしたくなりました。「お前に、この苦しみが分ってたまるか。ああ、フランス語が憎い、プーランクが憎い、武満なんて易しそうな顔してかわいい小品ぶっていて、ああ……」。小鳥の声も、潮騒も、マンドリンも聞えなくなりました。私は聴覚を中心に脳に異常を来たし始めたのであった。私は注1デンデン虫、窓しめきって 考える。かたつむりはかたつむり。
砂利を蹴る下駄の音、若者たちの明るい話し声、笑い声。はっと私は我に帰りました。そうだ、明日からどんなに出きが悪くたって私は百万ドルの注2微笑と称えられる微笑を忘れてはいけない。今週の目標である。愛と勇気と冒険を合い言葉に、やるだけやるんだ。
4時を少し過ぎました。影が長くなり空にはうっすらと雲が流れ、岩井は穏やかに夕方の顔になっていきます。もうすぐOMPの先発メンバーがやってくるはずです。この三日間の戦いに備えて今夜はささやかな宴会になるでしょう。そう言えば、何ケースかのお酒が宅配便で届いていますよ、と寮の方に言われていましたっけ。毎晩の宴会の準備だけは、いつも完璧なOMPなのです。
気取らず、リラックスして、日常そのものの木綿のパンツのような合唱団OMP。多くの人に愛されるアマチュア合唱団であって欲しい。という希い。さあ、明日からの日々、楽しい三日間になりますように。('88.5.2)
注1 '88年のNHK全国学校音楽コンクールの課題曲「かたつむりのうた」(阪田寛夫詩)から
注2 自分で言っているだけです。
私の中の海
もう十年以上も昔になるか。六月の雨の中、ひとり、沖縄本島最南端、摩文仁の丘に立つ。当然のように南に向かう、各県の思い思いの形をした四十基の慰霊塔。祈るような、なつかしいような、安らぎの深い沈黙。天も地も灰色に煙り、断崖から流れ落ち、そして霞む彼方。また昇る海。
じっと幾時か。突然、体を走り抜ける戦慄。涙が留めどなくあふれ出る。
何なのだろう。旅の感傷か。この海を渡り、それぞれの異郷の地で散っていった多くの同胞への哀悼か。海に生れ育まれ、健気に戦い、澄んだ目のまま生命を絶った健児や乙女たちへの、やり場のない悲しみと権力への怒りか。
今日も沖縄の海は、晴れればコバルトブルーの空を映し、雨ならばあの日のように煙り、悠久のうねりを繰り返しているだろう。暗い宇宙に、美しく浮いている青い地球。海は地球の色。海を歌うことは、地球を歌うこと。そして、生命を歌うことなのだ。
始まりの前に在った海。終わってからも、また、始まりを生む海。
いま、サントリーホールは海になる。
一九八七・五・二〇
時刻
時刻は多少人為的に修正されるとしても、宇宙天体の巡行の証しであることには異はない。わが地球と太陽、月、はたまた今年話題のハレー彗星(みなさん、もう忘れかけてはいませんか)などなどとの神秘的なかかわり等。人の作った時計に支配されるのはいささか堅苦しいが、こうしてた創造主の創られた流れに身を置くのは、むしろ心身共に開放され、生命のなんたるかを享受できる。
宇宙をコスモスと言う。もともと「秩序」とか「飾り」を意味するギリシャ語の名詞。「秩序」から天体の秩序だった運行に結びついて(これも、あの有名なピタゴラスが最初に用いたらしい)、「宇宙」の意味ができたそうだ。また、古代ギリシャ人は人間をミクロコスモスと言った。人間を「小さな宇宙」と考えたからだろう。
宇宙の秩序こそ真の時刻。「小さな宇宙」に流れる時刻の証しは生命、そして、喜怒哀楽の心の動き。人は真の時刻を支配しようとしてはいけない。もちろん「小さな宇宙」に流れる時刻も。神への冒涜のあとに来るものは、森が砂に変るように、生命は灰になる。
ピツェッティが6才の時山田耕筰が生れ、山田耕筰47才の時三善晃が生れた。そして、5年前、難産のすえ生れた合唱団OMPの−小さな宇宙の集合体−演奏により、それぞれの時刻を現在の生命の流れに証す。
創造主よ、豊かなる自在をわれわれに与えたまえ。オーム。
私見偏見文化論
ギリシャの神話時代にまでさかのぼる西洋音楽を知って百年余り、私たちはそれをどう学び、どう消化し、自分たちの文化として、どう世に問えばよいのか、まだまだ続く重い命題である。
特に合唱は、器楽よりはるかに古い時代から重要な作品が創られ、演奏されている。言葉と言う大きな壁の向うに在る習慣、宗教、美意識、そのほか、考えていくとそれが私たちの血と同化し、私たちの文化となっていくには、もう少し、時間を要するだろう。
しかし、こと創作活動において言えば、注目すべき秀れた作品が生れつつあることも事実である。
合唱団OMPは、西洋に学び、少しでも西洋を理解し、また、日本を考え、日本人を知り、そこから私たちのもの、と言えるなにかを、創り、育てていきたい、と、再編成され、4年前にスタートした。まだまだ基礎作りの時代であり、意欲的過ぎて未消化、と言う危険は省みず、こうした時期にこそ冒険は必要と、今回のプログラムを組んだ。
ヴィクトリアの陰影の深い、遠くにイスラムの熱くたぎる血を感じさす、うねり。ドイツ的な構築と、フランス風の色と線を持つ、フローラン・シュミットのモテト。今は亡き、青森生れの天才・寺山修司の肉を裂くような歌と、二台のピアノ、コーラスとの遠近による彼岸の詠歌、三善晃の新作。林光の見事な装いで、帰り、現代に棲みついた洋楽黎明期の唄たち。名作「幼年連祷」で合唱界の寵児となった新実徳英の新境地を世に問う、合唱団OMP委嘱第2作「海の記憶」。
いまや、アマチュアの文化活動はプロを凌ぐ勢いである。本来、文化は一般市民のものであり、プロはそれを助け、導く立場にあるものだろう。文化(culture)の語源colereは<耕す>と言う意味のラテン語である。私は文化活動のひとりの担い手として、耕し、植え、育て、収穫し、そしてまた、耕し、の繰り返し、はっきりした意識方向を持った螺旋状の円運動、に情熱を傾けたいと思っている。そうした円運動が交り合い、新たな円運動を生じ、やがて、いつかは西洋文化と自然に溶け合った、私たちの文化が爛漫と咲き香るのではあるまいか。
合唱団OMPも私も、その為の一個の捨て石であれたら、と願っている。
薔薇、ばらのことば
OMPの大きな夢のひとつである、委嘱作品第一作目が、この日、初演される。私は、いや、私たちは、抑えたときめきを胸に、その時を迎えようとしている。薔薇の季、五月、ぬめやかな肌、緑の帯をしめた白薔薇は、妖しく香り咲くか。
時の刻みは生命の刻みではない。が、あきらかに、昼夜の無情のくりかえしは、留まり居たい想いを捨てさせ諦めさせ、生命を削ぐ。過ぎたOMPも、現在のOMPも、私には、その削ぎとられた生命そのものなのだ。そして、続くOMPは、六月、四年目の刻みに入る。
白薔薇は天使と悪魔の交りの所産か。昼の微睡みに見た夢の優しさ、真夜中に浮く白さと陶酔の香りの誘惑。その大理石のような肌の冷たいぬくもりは、清冽な死の狂気。詩人でなくても、その微笑と妖気には、我を捨てる。
生命を削ぎとられる、それは友も同じだ。私をながく支えてきてくれた友、彼らなくして私はない。混沌から宇宙が生まれるように、素たる彼らの力により、OMPは少しづつ、形を見せてきている。あれがOMPだ、とだれもが認める、美しい青さを湛えた星になるには、まだ何年か、かかるだろう。
西村 朗により、OMPとピアノの田中瑤子を初めからイメージして創られた作品が、いま、世に出る。刻まれた多くの時と、削がれた生命とが、水の底の鐘をならし、まぼろしのばらは、ひらく。
ああ
しろばらよ しろばらよ しろばらよ
おまえはみどりのおびをしめて、
うすきいろく うすあをく にほってきました。
「愛する者」
合唱団OMPの初めての演奏会に、皆様ようこそ!
試行錯誤の何年かを経て、次の時代への命題として再結成されて二年、OMPは八十名を越す愉快な仲間たちの集りに広がってきました。息の長い、しかも、確実にひとつひとつの演奏を熟す合唱団に、ゆっくり育てて行きたいと思っております。
今日の四つのプログラムで、これからのOMPの在方を示そうとしました。一つは、ルネサンス・バロックの作品から合唱の基本を学ぶ姿勢。二つは、ヨーロッパを中心に近代・現代の作品への挑戦。三つは、だれにでも楽しんでいただける作品の開発と演奏。四つは、秀れた邦人作品を通して、その作曲家との親しい交流と委嘱活動。後の二つは、特に、私の生涯の仕事にしたいため、力を入れるつもりです。来年五月に予定している二回目の演奏会で、西村朗・新実徳英の両若手作曲家による新作がご披露できるでしょう。
アマチュアと聞けば、私たちはすぐ「素人」という言葉を思い起こします。素人というのは、未熟な人、専門でない人、といった意味で、ラテン語のamo(愛する)から発したamateurの適切な訳とは思えません。やはり、イタリア語のamatoreと同じく、愛する者、愛好者と訳した方が、芸術やスポーツには相応しいのではないでしょうか。
「真の自信を持つものだけが優しくなれる」。これは敬愛してやまない三善晃先生の言葉です。OMPは「愛する者」のために在りたい、と願って再結成しました。その「愛する者」たちが「優しくなれる」時、歌は歌うものも聞くものも包み込み、より高みへと昇華して行きます。その瞬間、点在していた過去も、確かな今も、未来に来るものも一つの線上に結ばれ、永遠の時間を得、魂は、唯一のものの存在を見るのです。
これこそギリシャの人たちの言う、九柱のムーサ(ミューズの原語 ミュージックへつながる)の女神の技でしょう。
この歓びは、人はだれでも享受できると信じています。だから私は、自分の命以上に、合唱を愛し、人を愛する本当のアマチュアでありたいのです。
'83·6·28
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藤平 <thompay@mbe.nifty.com>
合唱団 響