帰国して4日が経つ。
いままでの海外演奏旅行(私が演奏に参加したのは9回、他に青い鳥に同行したハンガリーを含めると10回になる。ずいぶん行ったものだ…)では、ほとんどがノー天気に「よかった〜」と帰国し、すぐに普段の生活に対応できたはずだった。しかし、今回は違う。これほど思いを残したまま帰国したのは、私としては1997年の千葉大ノルウェー・ラトヴィア以来だ。その時の思いというのはとてもはっきりしていて、初めて千葉大のトレーナーを任されて栗山先生の留守の間やってきたことが、結果として実を結ばなかったことへの悔しさだった。ところが今回の思いは、いろいろと複雑に絡み合って、未だに自分の中で結論が出せないでいる。しかも、その思いは間違いなく、演奏に対する後悔の念ではないのである。演奏にはとても満足しているのである。それではいったいこの思いは何なのか。 本当の自分の気持ちを南仏、とりわけエクス・アン・プロヴァンスに置いて来てしまったような気がする。今すぐにでも、一人で南仏に戻りたい気分を引きずっている。自由に出来るお金があれば、本当にやってしまったかもしれない、と思うほどに。
その気持ちが何かを、自分の中で整理させるためには、ここのところすっかりさぼっていた「旅行記作成」が一番だと考えた。94年、最初のトロサの時は、見ることやることあまりに新鮮で、帰国後会社で仕事もせずに旅行記を書き、あちこちに流したものだ。(当時勤めていた会社では、業務部長が私の旅行記を見て感動し、社内報に載せ全社員に流す、ということも起きた。いい時代だった。)今だったら、まだ日々の行動や心境を振り返ることができるかもしれない。じっくり、時間をかけて書いてみようと思う。
こう書いているうちに、自分の中に一つ確固たる思いを探し当てた。それは、「響」という合唱団へ対する、今までにない熱い思いだ。この合唱団を良くしたい。この合唱団で楽しみたい。この合唱団を選んで入ってくれた若い人たちを育てたい。そういう思いが自分の中で渦巻いていることは確かである。
さて、頑張って書いてみるか。
5月9日(水)自宅〜成田〜パリ〜ブリュッセル
東京カンタートなどで事前に全く準備が出来ず、ほとんど徹夜状態で荷造りをした。 途中、朝4時半頃に足りないものに気付いて車で買出しに出たりして、行く前からフラフラになった。しかし、スーツケースの中は今までになくガラガラであった。保谷駅で栗山先生、高橋さんと待ち合わせるが、栗山先生がなかなか来ない。結果的に、池袋発の成田エクスプレスに間に合う時間に、先生は現れなかった。1分後、悠然と先生が現れた。どうやら、家族ぐるみで電車の時間を勘違いしていたようなのだ。「もう間に合わない…」そこで私は考えた。成田エクスプレスは、池袋から東京まで、山手線の内回り電車と同じようにぐるりと回る。ひょっとして、その間に丸の内線で先回りできるのでは… i-modeで調べてみたら、やはりそれが可能だった。かくしてフラフラだった頭はすっかりさえ、池袋駅で急ぐ急ぐ… 先に乗車していた赤坂と信夫さんと、東京駅で合流、何事もなかったかのように成田に着いた。スタートから何やら波乱含み…
成田には、栗友会の仲間が何人か見送りに来ていた。その中には、その日に長崎に帰省してしまう帆足がいた。また、忙しくてなかなか練習に来られず、この旅行にも参加できなかったこはるの姿もあった。みんなで行けたら良かったのに。
ほぼ定刻どおり(12:30発)機上の人となった。私と同じ「本隊」は栗山先生、ツアコンの斎藤和彦さん、通訳の安保洋子さん、山本信夫マネージャーを含めて32名だった。なんだか、とても小さな団体だ。エールフランスのジャンボ機は、近頃流行の「パーソナルテレビ」などついていない、質実剛健なもの。いつもの海外旅行のように、語り、食い、飲み、眠り、(機内の退屈しのぎは、旅を重ねるごとに上手くなります…)あっという間にパリ・シャルル=ド=ゴール空港に到着した。
普通の旅なら、ここでブリュッセル行きの飛行機に乗り換え、というところ。しかし、今回は違う。パリ〜ブリュッセル間を高速で結ぶ、ベルギー国鉄が誇る「Thalys」という電車に乗るのだ。しかも、この電車、何本かに1本は、シャルル=ド=ゴール空港内のTGVの駅から出るのだ、私たちが乗るのも、それ。みんなが1等車に乗る中、私を含む数名が2等車に回されたりしたが、結果的に1等車に空きがあって移動。快適な1時間18分だった。ブリュッセル到着後、ホテルへ。最初に3泊するブリュッセルの宿が、まとめて取る事が出来なかったらしく、先生+女性+夫婦と、その他男性との2箇所に別れてしまった。2つのホテルは細い道を挟んで向かい合わせにあり、行き来に苦労するわけではなかったが、やはり盛大に飲み会を開催する事が出来ず、多少残念ではあった。また、ホテルのグレードにも明らかに差があり、女性の方のホテルは広くはないが可愛らしい感じの清潔感ある雰囲気の部屋だったのに対し、男性の方は「質実剛健」(by堀津さん)な感じの部屋だった。 入った瞬間、過去の古いホテルでの出来事がいろいろ想起された。特に、お湯周りで苦労した事。あのブルゴスのホテル、大変だったな、とか… しかし、このホテルはお湯周りは大変に優秀で、いくらお湯を出していても大丈夫であった。良かった。
女性の方のホテルに、Kolacny(コラシニ)兄弟の弟のStijn(スターン)が現れた(後に彼は石丸氏により「スタコラ」と称されるようになった)。以前お会いしたときより、だいぶ大人っぽい感じになった。髪をたいそう短くしており、一瞬誰だったかわからないくらいだった(あとでわかったことだが、「賭け」に負けて髪を切る羽目になったそうだ)。長旅の後でかなり疲れている我々であるが、そこで早寝してしまうと時差調整に苦労する事をみな知っている。ほぼ全員で、スターンを囲んで町に繰り出す。(ちなみにスターンは下戸である。兄のSteven(スティーヴン)はビール星人で、信夫さんと親友らしい。)さっそくベルギービールを何種類か口にする。その店には有名かつ栗山氏ご推薦の「CHIMAY」はなく、「Leffe」とか「Duvel」を飲むが、これがみな美味しい! しかも、アルコール分が高い(9%とか、11%なんてのもある)。このアルコール分の高さに溺れてしまう団員は、この夜こそは出なかったが… 私はというと、ベルギーに着いたぞ〜という気分で体中が満ち満ちて、幸せな気持ちで部屋へ帰り、就寝した。何時ごろだったか…結構遅かった事は確かである。先に帰ってきていた堀津さんが気持ちよさそうに寝ていた。以降の旅程で、堀津さんの寝顔を拝まずに私が先に寝たことは、結局1度も無かった…
ところで、「響」はどうしてベルギーに来ているのか。そのことを整理してみたい。私個人としては、実はかなり因縁深い旅だったのだ。
序文で触れた、私にとっては苦い思い出でもある1997年の千葉大でのノルウェー・ラトヴィア演奏旅行。この時、ラトヴィア・リガでの合唱祭に、千葉大学合唱団とともに一緒に参加していたのが、コラシニ兄弟率いる女声アンサンブル「アマリリス」であった。彼女らの音楽、声の力も凄かったが、それよりもとにかく元気だった。レセプションでの騒ぐは、はしゃぐは、そこだけノリが違う感じだった。私が少しロビーの椅子で休憩していたら、アマリリスのメンバー数名が寄ってきて(初対面なのに)「ヘーイ!こんなところで何休んでるの?ひょっとしたら、飲みすぎて酔っ払ったんだな!そうでしょ、そうでしょ、キャハハハ!!」と大騒ぎ。その後しばらく、アマリリスのメンバーの若々しさに振り回された記憶がある。そして、その時のメンバーの中に、コラシニ兄(スティーヴン)の今の奥さんがいたそうだ。そして、奥さんは私のことをはっきり覚えていてくれた。話が逸れたが、この出会い、そして栗山先生の直感が、道を作る事になったのだ。その後のアマリリス日本公演、そして「彩」のベルギー訪問(順序逆だったかな?)。そして、今度は混声合唱で、コラシニ兄弟のピアノデュオとの共演も含んだプログラムで、というお誘いを受けて、先生が「響」で行く事を決断したのだ。決断したときはまだ「合唱団OMP」だったが。ところで、この年月の間、コラシニ兄弟の身辺も大きく変わったようだ。音楽家としては順風満帆で、援助してくれる企業家も現れていた(これがまた私たちの今後につながっていくわけだ)。しかし、アマリリスを解散せざるを得ない状況になっていたりして、必ずしも全てがうまくいっているわけではなさそうだった。
5月10日(木)ブリュッセル〜アールショット〜ブリュッセル
朝は10時出発と余裕がある。バスで、コラシニ兄弟が用意してくれたアールショットの練習場「Kasteel Elzenhof」へ移動する。彼らが率いる「Scala」という合唱団もここで練習しているらしい。ポスターなどがある。解散したアマリリスのポスターも。「彩」がベルギーを訪れたときは、この場所で演奏会が開催されたそうだ。それにしても、何という素晴らしい環境! 緑に囲まれ、大きな池があり、そのほとりには野鳥や水鳥… 一日中ぼーっとしていたくなるような場所だ。赤坂の粋な計らいで、発声の前の体操は、「散歩」からスタート。池を一周してみた。結構大きな池で、時間がかかる。途中公園のようになっているところでは、大勢の子供たちが遊びまわっている。こんな風景、今の日本で見られるだろうか? 練習場もなかなか良い。小規模だが立派なコンサートホールだ。まだ後発隊10名が到着していないので、とても小人数での練習になった。ゆったりとした雰囲気のおかげで、気分良く練習できたように思う。昼食は、手作りサンドウィッチ。安保さん、斉藤さん、信夫さんが奮闘。おいしかった。
この日は身体慣らし程度ということで、15時には練習終了。残り時間はブリュッセル観光と夕食に充てる。中央広場でいったん解散した後、「ビール飲もうぜ」と考えた人7〜8名でさっそくビールを飲める店を探す。誰かが「その前に『小便小僧』くらいは見に行こうよ」と言ったので、そちらの方向に歩き出す。「世界3大がっかり名所」と呼ばれるブリュッセルの小便小僧だが、私はそれほどがっかりしなかった。 それよりもビールだ!小便小僧の真向かいのオープンエアの店で、ビールを頼む。ここには「CHIMAY」があった。旨い! さすがだ。また、オープンエアでさわやかな風に当たって飲むのがいいのだ。この日は実に爽やかな気候で、ビール日和。適度に酔っ払った後、7〜8名で歩き出すが、私の目に飛び込んできたのは「TINTIN」の看板! 思わず吸い込まれてしまい、この店で1時間近く過ごし、他のメンバーとはぐれた。「TINTIN」のものは必ず買おう、と決めていたのだから仕方がないが、ここで驚くほどお金を使ってしまった。買い物を終えて満足して店を出ようとすると、栗山先生が入ってきた…
夕食は、ブリュッセル市内の有名レストランで。まあまあ美味しかったが、以前行ったスペインや南仏にはちょっと劣るかな、という感じ。肝心の「ムール貝」がシーズンをはずしているのが痛い。それにしても、やはりシーフードの方が肉類より美味しい。この夕食時に後発隊9名(+付き添いの唐沢さん)が合流。みな元気そうだ。ちゃむさんの笑い声が響き渡り、みんな安心する。
翌日からいよいよ3日連続の演奏会ということで、技術委員で作戦会議を立てる。時差ボケや飲みすぎ、食いすぎ、買い物疲れで皆辛そうだったが、ここはひとふんばり。ここで話したことは、この後の演奏に大いに生きたと私は感じている。
5月11日(金)ブリュッセル〜アールショット〜ブリュッセル
この日も出発は10時(しかし、余裕があるのはこの日までだった…)。バスで、アールショットのコンサート会場「Gasthuis」へ。 前日の練習場と違い、アールショットの中心街のにぎやかな場所にあった。ホールは、日本の新国立の中劇場を思わせるような、小規模だが整然としたものだった。チケットはほぼ完売しているらしく、コラシニ兄弟とその周辺の人々の尽力には頭が下がる思いだ。練習はさすがに前日より緊迫度を増す。最大のポイントは、「Mettasutta」の演出だ。蝋燭とお香を使う。ホールの人に協力していただき、照明も操作する。綿密な打ち合わせと場当たりを重ねる。個人の段取りが結構難しく、日本にいたら「私、どこ?」 「あ、間違った!」などの叫び声が飛び交いそうな状況だったが、さすがに外国に来た緊張感からか、意外なほど整然と事が進む(やればできるじゃないか!)。昼食は前日と同じ手作りサンド(ありがとう!)。そして昼休みにはアールショットの町を散策する。 きれいな町だ。 一回りして帰ってくると、パリから車を飛ばして到着した清水てっちゃんの姿が! 仕事を抜け出して来るのもなかなか大変そうだが、元気そうでなにより。夕方には、いよいよ今回のホスト合唱団「Flemish Radio Choir」の単独練習と、合同演奏の練習が行われる。この合唱団はプロで、常任指揮者はいるのだが、今回の演奏会に関しては客演のコラシニ兄弟にすべて任されているそうだ。コラシニ兄弟の選曲は、「日本の作品」を中心にしたものだった。 そして、そのほとんどは、「彩」が訪れたときに楽譜を置いていったものだった。今までも、私たちはいろいろな国、いろいろな場所で日本の楽譜を置いていった。しかし、本気で演奏してくれたのは彼らが初めてではないだろうか。それだけでも感動するのに、その日本語の上手さ! 彼らは「日本語が上手く行かない」 と嘆いていたが、なんのなんの。そして、指揮のスターン25歳、ピアノのスティーヴン32歳という若さで、プロの合唱団員相手に堂々と渡りあっている。彼らは素晴らしい音楽家だ。スターンの指揮は荒っぽいが、「歌わせる」「音楽させる」魅力十分。スティーヴンのピアノは柔らかく、切れがあって最高だ。石丸寛編曲の「会津磐梯山」は、彼にかかるとタンゴになる!
この旅行の中でも幸せの絶頂だったのは、この後の「唱歌の四季」の合同練習だった。日本人の栗山先生が指揮をし、ベルギー人のコラシニ兄弟がピアノデュオ、合唱は日本の響とベルギーのRadio Choirの混成、そして歌われる曲は、日本の代表的な唱歌を、現代日本最高の作曲家三善晃が編曲したもの。これは歴史的瞬間だった。そして、コラシニ兄弟のピアノデュオの素晴らしさ! 兄弟ならではの微妙な呼吸の一致、そして、日本人には出来ないと思われる独特のセンスのタッチ… 栗山先生が、「朧月夜」の時に、「かわずのなくねも かねのおとも」をピアニシモで歌うところで、「ここでピアノが鐘を鳴らすのです」と言った。その直後、その個所を練習したとき、本当に、第一ピアノ(スティーヴン)が鐘になった。「ミレドラミドーソー」という音の鐘が鳴った。何という凄いセンスなのだろう。 感動。
ちょっとした興奮状態の中、直前に軽食をいただき(この時どなたかが買ってきてくれたピザが美味しかった!)、栗山先生のMettasuttaの楽譜が紛失したと大騒ぎをし、ばたばたした状態で開演(楽譜は後で無事に出てきた。ピアノのそばに置いておいたらスティーヴンが間違って持っていってしまったのだった!)。まずはRadio Choirの単独演奏を聴く。「Scala」のメンバーが客席に大勢おり、そのノリは、前述の「アマリリス」のそれ。コラシニ兄弟がステージに現れるやいなや、黄色い喚声があがる。プログラムは、全部ではないが、大部分が日本語の作品。「阿波踊り」「会津磐梯山」は楽しい演奏。男声合唱の「ほたる」もめずらしい。信長君編曲の「赤とんぼ」は、「彩」がこの地でたびたび演奏したもの。これも男声でしっとり聴かせてくれた。また、武満の「さくら」も、素晴らしい声と音程で聴かせてくれた。しかし、順序は前後するが何と言っても「火の山の子守歌」だろう。品があり、美しく、胸を打つ演奏。この時、赤坂と二人で聴いていたのだが、「火の山」は、彼女が一生懸命ローマ字をふった楽譜をそのまま使っていたそうだ。隣の赤坂の心の震えが伝わってくるようで、「彩」の時には同行していない私もじーんときてしまった。
「響」単独の演奏も、初回としては無難にまとまったのではないだろうか。飛車角を欠いた状態の「響」なのだが、みんな精一杯演奏したと思う。南聡作品の「携帯電話」のシーンがよく受ける。よかった… そして、後で聞いた話だが、「島唄」を演奏したとき、「Scala」のメンバーが泣いていたそうだ。以前のGVTのツアーでも、「島唄」は、演奏している我々も含め、数多くの人を泣かせている。言葉の意味がわからないのに、あの旋律で泣いてしまうのだ。沖縄音階の神秘、パワーを感じる。林光さんが、ここぞという時に必ず沖縄音階を使用する理由もわかるというものだ。
合同は、練習時よりもさらに世界が広がった気がする。ベルギーの空気の中に、日本の風景が広がるような演奏だった。そして、不思議なことだが、言葉は響のそれ、声はRadio Choirのそれに収斂し、何とも上質な演奏になったような気がしたのは私だけだろうか。私が浮かれすぎていたのだろうか。
この後の打ち上げは、ビールとワインの他はチーズが多少ある程度のシンプルなものだったが、とにかくビールが旨くて他は何もなくても、という気分だった。合唱団の長老格の人から、子供たちまで、まさに老若男女があたたかく接待してくださった。チーズを配っていた少年の笑顔は忘れられない。本当にあたたかい、素晴らしい打ち上げだった。ところで、前述の通り、ベルギービールはアルコール分が高い。そのことを忘れてガブ飲みし、大はしゃぎしていたメンバーが、帰りのバスの中で人に迷惑をかけることになった。子供じゃないんだから、まったく…
ホテルに到着したときはもう夜中の2時近かった。これでこそ海外演奏旅行だ!
5月12日(土)ブリュッセル〜ブルージュ〜ゲント〜(車中泊)
いよいよこの旅のクライマックス、演奏会後の車中泊を含む日がやってきた。思えば99年1月GVTツアー、スペイン北西部ガリシア地方ののビゴでのコンサート、打ち上げの後、そのままバスでバスク地方のビトリアまで移動、かかった時間は10時間くらいだったろうか。あの時を思えば、今回はそれまでの行程が比較にならないほど楽だ。
朝は8時出発。とりたてて早いわけでもないが、今までが楽だっただけにきつい。 今日は、栗山先生が「どうしてもみんなに見てもらいたい」というブルージュ観光だ。バスの中のよどんだ空気を、ブルージュの美しい景色が吹き飛ばした。本当に美しい町だ。本隊は若いガイド嬢についてゆっくり観光するが、私たちは別の使命があったのだ。ブルージュに拠点を置く企業「VDAB」の社長Vansteenkiste氏(難しい名前だ…)とお会いして、来年の打ち合わせをしなくてはならないのだ。栗山先生、てっちゃん(栗友会会長として)、誠さん(響の臨時代表として)、信夫さん(栗友会事務局長として)の他、おおしまった久実さん、田中でんちゃん、通訳の安保さん、そして横山の計8名は本隊と別行動となった。以下しばらくは別行動の記録である。当初11時といっていたアポは、12時に変更になっているということで、我々はとある場所でスティーヴン(彼がVDABの社長と我々を引き会わせてくれることになっている)と待ち合わせをした。そして、スティーヴンと合流、多少道に迷いながら、VDAB本社のある建て物に到着した。社長のVansteenkiste氏が出迎えてくれた。彼は音楽を含めた文化的な活動に大変熱心で、この本社の建物も、歴史的に意義のある建造物(ちなみに古い)を買い取って、保存目的とともに本社として活用する、という意図で手に入れたものだという。そこには、ブルージュには他にほとんど残っていない、自然の石の色のまま使用された暖炉があったり、窓から見える景色がブルージュの重要な建物をほぼ網羅するような絶景であったりした。VDABという会社は、一言では言い表せないが、多岐に渡って企業活動をしている総合商社のようだ。その社長が、いわばパトロンとして援助し続けている唯一の存在が、コラシニ兄弟なのだ。彼ら率いる「Scala」の今夏の浜松遠征に際しても、相当額の補助が出ているらしい。そんな彼ら(社長+コラシニ兄弟)が、来年4月に行われるイヴェントに、栗山先生を指名し、ぜひ来ていただきたいとおっしゃったのだ。これは大変に大きな出来事で、ある意味栗山+栗友会の将来を示しているように私には思える。栗山先生は、そのご招待に関して、ぜひ演奏させていただきたい、という明快な「イエス」の返事を口にした。
表敬訪問終了後、遅めの昼食をとった。この店には、冷凍だとことわった上でのシーズンオフのムール貝があり、迷わずそれを頼む。旬のものがどれだけ旨いか知らない私にとっては、この冷凍の貝でも満足である。しかし、この店(ヨーロッパにはよくあることだが)、非常に料理の出てくるのが遅い。結果的に、予定のゲント15時入りはまったく無理で、我々別行動隊は、この食事中にScalaのメンバーを引き連れて合流したスターンを含め、3台の車(スティーヴン、スターン、てっちゃん)でゲントに移動することになった。本隊の方もいろいろトラブルがあって遅かったらしく、練習開始は結局18時くらいになった(これまたヨーロッパではよくあることだ)。この日は結局気の抜けぬまま朝から過ぎていったので、見るからに先生の体調が悪そうで心配だった。さらに、この日の会場は教会だったので、前日とはいろいろ条件が異なった。Mettasuttaでは、座ってしまうとみんな見えなくなってしまうので一部を除いて立って演奏したり、合同では2台のピアノがかなり離れた位置に置かれたりした。しかし、やはり教会独特のサウンドは魅力的で、結果的に前夜とは異なる新たな味が出たのではないかと感じた。お客さんも、前夜のような黄色い声を飛ばすような雰囲気はなかったがじっくり聴いてくれた感じで、いい雰囲気だった。
ここで、演奏終了後に我々自主企画での打ち上げを計画していたが、結局それはできないことになり、バスのそばで即席のお別れ会のようなものを開いた。しかし、あわただしい中で私はこのとき別行動していたのだ。Radio Choirの常任指揮者に呼ばれ、彼らが演奏した「Vic Nees」編曲の日本民謡集の「発音テープ」を作りたいから、ローマ字を読んでくれ、と言われ、演奏会後の誰もいなくなった教会に逆戻りし、「レコーディング」していたのだ。録音機材は、子供のおもちゃみたいなカセットデッキだった。全8曲分の朗読を終え、バスに戻ってみるとなんだか盛り上がっていた。 それはそうだ。もう翌朝は我々はベルギーの人ではないのだから。コラシニ兄弟ともしばしのお別れということになる。名残を惜しむかのように、バスはゆっくりと長旅についた。バスの中でも缶ビールが1本ずつ配られ「乾杯」となった。運転手交代のため一度ブルージュに寄り、それからパリに向けて出発となった。 目が覚めるとそこはフランス、である。
5月13日(日)(車中泊)〜パリ〜アヴィニョン〜ヴェゾン・ラ・ロメーヌ〜アヴィニョン
よく寝た。バスの中だと言うのに、結局この旅行中一番睡眠時間が取れたのはなんとこの時だった。気がつくと、見覚えのあるパリ・リヨン駅前にバスが着いていた。この旅では、パリはかすめるだけで滞在することは無い。少し惜しい気がする。この時配られた朝食が、おにぎりとウーロン茶だった。 こういうことが出来るのもパリならではか。
ホームに降り立つと、思い出す。あの時のこと。 1996年7月、コーロ・カロスで、やはりTGVでパリ〜アヴィニョンの移動の時。旅行会社の連絡不行き届きで我々は違う電車に乗ってしまい(しかも荷物は正しい電車に乗せられてしまった)、みんなで大慌てした時のこと。もう5年も前なのか…
そもそも、このような強行スケジュールを立ててまで、なぜ南フランスに行くのか。その理由は、その時のカロスの旅行にさかのぼらなくては理解できないはずなのだ。前の年の「ヨーロッパ・グランプリ」を受けたカロスは、1996年にヴェゾン・ラ・ロメーヌで開催される合唱祭に招待され、南仏各地で数回の演奏会を行った。この合唱祭の主催者の中心人物であるマルセル・コーネループさんと、マリー・クレールさんが栗山+カロスをすっかり気に入ってしまい、その後ヨーロッパ各地でお会いするたびに、コーネループおじいちゃん (失礼だが、本当にそう呼びたくなるような風貌の人なのだ)は栗山先生に抱きついてくるのだ。そんな中、栗山先生とカロスのメンバーは、南仏の美味しい食べ物と豊かな自然を満喫し、そして合唱に対する、我々に対する人々の熱い心を十分に受けて、本当に素晴らしい旅を楽しむ事が出来たのだ。栗山先生も、カロスのメンバーも、心のどこかで「また南仏に行きたい!」と思っていたはずだ。
しかし、これだけでも理由としては不十分だろう。その時添乗員で、今回は通訳として同行してくださっている安保さんと旅行中に話をしたのだが、1996年という年は本当にいろいろあった年だったのだ。 前年秋の、栗山先生の二度にわたる心臓の大手術。完全に癒えたわけではない状態での強行スケジュールでの海外遠征(しかも、この南仏旅行の後、引き続いてOMPを率いてシドニーに行くというすごさだった)。安保さんをはじめ、周囲は心配の連続だったことだろう。そういった状態の中で、栗山先生の心の中ではあることが渦巻いていたはずなのだ。実はその時、今回の旅行でもピアニストとして同行してくださっている大島啓子先生のご主人で、栗友会会長でOMPの団員だった大島昭信さんのすい臓がんが発覚していて、すでに余命いくばくも無いという状態だったのだ。もちろん私を含めたカロスの団員はそのことを知らなかった。 しかし、安保さんはその旅行中で栗山先生にそのことを聞いていたのだった。今思えば、先生は心の中に大島さんを思いながら旅をしていたのではないだろうか(もちろん、その後のシドニーまで!)。また、安保さん自身も、お母様ががんで療養中だったのだ。残念ながら大島さんも、安保さんのお母様も、その年の秋に亡くなられた。そういった日々の中、栗山先生にとって、南仏は特別な土地になったのではないだろうか。その時に思った事、感じた事を再び探しに行く旅にしたかったのではないだろうか。 少なくとも、安保さんと私は、そのことを確認していたし、おそらく信夫さんも同じだったろうと思う(その旅行と今回の両方を体験しているのは栗山先生、信夫さん、安保さん、そして私の4人だけなのだ)。
2階建てになったTGV(5年前は1階建てだった)に乗り、一路アヴィニョンへ。バスの中で配られたおにぎりをさっそく食べる。まずかった(ごめんなさい)。栗山先生を含めた周囲の人々は、どんどん睡魔に襲われて倒れていくが、私は景色が見える昼間はほとんど寝ることが無い。この時も、となりに座った佐藤若菜の機関銃のようなしゃべりを楽しみながら(?)、移り行く景色をじっくり堪能した。草木や、建物がだんだん南仏ふうになっていくのがよくわかる。いよいよやってきた。胸が高鳴る。
5年ぶりのアヴィニョンに着いた。バスに乗って、2泊するホテルに向かう。20分後の再集合というとんでもないスケジュールの中、堀津さんと交代で大急ぎでシャワーを浴び、着替え、再度バスへ。1時間ほど走ると、見えてきた。なつかしい、ヴェゾンの町が。なんだかじーんときてしまった。1994年に思い出をいっぱいつくったスペイン・トロサを、1998年に再度訪れたときと同じ感覚だ。その時栗山先生が泊まっていたホテルの中庭にあるおいしいレストラン(残念ながら私は5年前はそこを訪れてはいなかった)でみんなで食事をした。ポタージュスープや鴨肉が美味しかった。南仏の味!
例によってゆっくり食事をした後、演奏会場のヴェゾン・ラ・ロメーヌのカテドラルへ。カロスが演奏会をしたところだ。建物、周囲の風景、汚い公衆トイレ、すべてが懐かしい。ベルギーでは日本の曲だけのプログラムが許されたが、ここではそうはいかない。ヨーロッパの作品を、この一夜のためだけに用意してきた。正直言って心配だった。こちらに来てから一度も歌っていないのだから。しかし、教会の響きと南仏の空気が私たちを助けてくれたのか、練習ではそれほど酷い状態ではなかった。開演前、一人の日本人が私たちを訪ねてきた。山田さんといって、フランス人と結婚してヴェゾンに住んでいるという方だ。
彼女はもちろん5年前のことは知らず、とにかく日本人が大挙してヴェゾンにやってきた、ということだけでひどく感激している様子だった。朝、教会にお祈りに来たときに、この演奏会の事を知人から聞かされ、それじゃあ来てみるか、という感じだったらしい。
このあわただしい日に限って開演が18時!(欧米ではコンサートは20時とか21時開演が普通)バタバタした状態であっという間に本番の時間が来てしまった。お客さんはあまり多くない(地元の有力な合唱団がリヨンでコンサートをしているためらしい)。ピアノが用意できず、やむを得ず用意された電子ピアノで、バッハを歌う。国内、国外各地で何度も歌ったブストのアヴェ・マリアを歌う。そして、最難関のプーランク。「Tenebrae…」を歌い始めたとき、明らかに空気が変わったと感じた。 お客さんの雰囲気が変わったわけではない。プーランクの音楽と、フランスの空気が融合してエネルギーを発するような、不思議な感覚を持った。やはり、この国で生まれた音楽なのだ、と強く感じた。「Tristis…」の最初の赤坂のソロの出るタイミングが最高だった。そして、彼女の透明な声が教会のドームに響き渡った。もうこれで成功だ。個人的には、この曲は練習・本番通じて初めて納得できる演奏になったように思う。フランスの空気のおかげか。
この演奏会を待たずして4人のメンバーが仕事の都合で本隊を離れたが、その4人が全員テノールというのも… 6人しかいなくなったテノールだが、なんとか最後の気力を振り絞って演奏した。「獅子舞」などは完全に手の内に入れた感じで、演奏するのが楽しくてしょうがない。決して多くないお客さんは、精一杯のアプローズを贈ってくれた。立ち上がってくれる人もいる。5年前と同じだ。
アンコールで「赤とんぼ」を歌い始めたとき、客席の山田さんが感極まって泣き出してしまった。私たちも泣きながら歌った。こうして、この旅の最大の目的である「演奏」は全てが終了した。思えば、日本にいる時から、旅行に参加できるメンバーが減少したり、練習が思うように進まなかったり、苦労の連続だった。でも、「響」は踏ん張った。一番苦しかったのは栗山先生ではないだろうか。そう思うと申し訳ない気持ちになる。
20時頃だが、外はまだ明るい。打ち上げ会場は、5年前カロスのメンバーが何泊も寝泊りした「A Choer Joie」の研修施設だ。これまた懐かしい。何故か子供たちがいっぱいいる。児童合唱団だろうか。「赤とんぼ」を歌ってあげた。そして、各自が持ってきた日本のおみやげを子供たちに配り始めた。先生らしき人が「喧嘩になるから一度私たちにください」とおっしゃっているのだが全然聞こえない。大混乱状態だったが楽しい一瞬だった。打ち上げでは、5年前にもお会いしたドミニクさん夫妻と一緒に座った。5年前にホームステイしたカロスのメンバーのこと、その後98年にパリで演奏会をした時にもそのメンバーが寄ってくれたことを、写真や手紙を見せながら懐かしそうに何回も、本当に何回も繰り返して話してくれた。その顔は、本当に懐かしそうで、彼等にとって本当に大切な思い出になっているのだ、ということを実感した。そして私は、そのメンバーが全てもうカロスでは歌っていない、ということを彼等に告げることが出来なかった。とても悲しい気持ちになった。日本に帰ったら、元カロスのメンバーたちにこのことを伝えようと思っていたが、未だに出来ないでいる。いったい、何と言って伝えたらよいのだろう…
山田さんとも話が出来た。山田さんはすっかりセンチメンタルになっているようで、フランス人とは話がしたくない、と言っていた。南聡作品の1曲目「あなたはどうして自分が日本人だと言えるのですか」 「民族を定義するには本人のアイデンティティが必要です」という言葉がずしりと重くのしかかったそうだ。彼女の娘さんはもちろんフランス人と日本人のハーフであり、まさに本人のアイデンティティによって「何人(なにじん)」かが決まるわけだ。それも含めて、とにかく私たちがなすこと全てが新鮮で、本当に興味を持ってくれたようだった。そして、とてもよい思い出になったようだ(帰国後本当にすぐに、なびかのところに手紙と写真が来たのだ)。私たちも、彼女に助けられた面が大きいと思った。
たった一回の演奏会のために、ヨーロッパを縦断してベルギーから南仏にやって来た私たち。コーネループおじいちゃんこそいなかったが、マリーさんをはじめとしたこちらの事務局の方が、本当に努力をしてこの演奏会を開いてくれた。そのことには、ただただ感謝するよりなかった。コーネループおじいちゃんにも早く感謝の意を伝えたい。
打ち上げ終了後、アヴィニョンのホテルに戻り、信夫さんの部屋で、この旅で初めて、大規模な「部屋飲み」が出来た。演奏がとりあえず滞りなく終わった安堵感と、心地よい疲労感に満ちていた。
5月14日(月)アヴィニョン
朝7時、カロスから転がり込んできてこのツアーに参加した佐藤若菜が帰国の途へついた。結構大勢の人が見送りに出てきて、名残惜しさも重なって若菜の眼にも感動の涙が…なんてことは全く無く、あっさりと「じゃあね」くらいな感じ。若菜だ…
さて、今日は終日アヴィニョン観光の1日。観光もさることながら、買い物にも熱がこもるだろうと思われる。11時にロビーに集合し、栗山先生とともに出発。同行したのは安保さん、信夫さん、でんちゃん。まずはこれを見ないと語れない、サン・ベネゼ橋、いわゆる「アヴィニョンの橋」へ。5年前に来た時は、私は外から眺めただけだったが、今回は橋の上に上ってみる。携帯電話のお化けみたいな日本語音声ガイドを持って、最初は真面目に聞いていたがあまりの丁寧さに途中からどうでも良くなってしまった。途中で切れてしまっている橋の反対側は、立派な宮殿のようになっている。世界史で習うように、アヴィニョンは一時期法王が居た場所である。なるほど、という感じ。昼食は、フランスには本当に多い「ヴェトナム料理」の店へ。中華料理をフランス風にアレンジした感じで、なかなか美味しい。地元の人にも、手軽さ、安さが受けているのだろう。
町の中は、ブルージュほどではないにせよ、観光都市という雰囲気が満ちている。広場にメリーゴーランドがあったり(栗山先生、信夫さん、でんちゃんが乗った。私は写真を撮った。余談だが、千葉大生にこの写真を見せたところ、 「あたし、これ乗った。アヴィニョンでしょ!」という子がいてびっくりした。)、汽車型の観光バス(文字で説明しにくい…)があったり(これはみんなで乗った。心地よい揺れのせいか、栗山先生はいきなり爆睡し始めた。)よくわからないラテン系の楽団が踊りながら演奏していたり、「静止」を売りにした大道芸人がいたり、なんだか楽しい町だ。ひとしきり見た後は、いよいよ買い物。先生は今回は何を買うのかな、なんて思っていたら、まず最初に大きな買い物をしたのは、念願だったメフィストの靴を買った自分だった。だって2万円ちょっとで買えるんですよ!日本では考えられない安さ。そのうち、CDなどを物色したくなって私は先生たちと別れ、単独行動を始めた。お巡りさんにCD屋の場所を聞き(アヴィニョンのお巡りさんはとても親切だった!)、行ってみたら当然のように山口がいた。ある程度予想はしていたが、品揃えはそれほどでもなかった。 しかし、日本で見つからなかった「死の都」のCDを見つけた。これは大きな収穫だった。
いったんホテルに戻って、再集合。夜は、添乗員の斎藤さん主催のディナー。行った場所は、5年前にカロスが行ったオープンエアのレストランだった。その時は、松江でお世話になった故・青戸純夫さんのご子息がアヴィニョンに赴任していて、彼に連れて行ってもらったのだが、やはりここは有名店らしい。そして、肉も魚もワインも、たいへん美味しかった。 そのうち、 カンヌ映画祭を見に行ったと言う仲良し二人組 (高基・水鳥川)が同じ店に入ってきた。少し気温が下がってきて、栗山先生は一足先に退散。後発部隊の私たちも、駅前からタクシーを拾って帰ろう、と思ったら全然タクシーが居なかった。忘れた頃に時折やってきて、しかも毎回同じタクシー(つまり客を乗せて目的地に着いたらまた駅に戻ってくるわけだ)だったりする。ホテルに帰るのはずいぶん遅くなった。そして今夜も信夫さんの部屋で軽く宴会。のんびりした一日が終わった。
5月15日(火)アヴィニョン〜エクス・アン・プロヴァンス
やはり朝7時、一日早く帰国する長谷川夫妻と知恵が帰国の途へ。しかし、彼らは結局目的の便には乗れず、結構遅くなったようだ。それは前日の若菜も一緒で、このスケジューリングでうまく乗り継げたのは、明日帰国する本隊だけだったようだ。
今日もまたまた観光だ。 このスケジュールに関してはいろいろと意見があったようだが、南仏はこれくらいゆっくりしないと居た気がしないような場所だ。これで正解だったと思う。バスでエクス・アン・プロヴァンスへ。音楽祭で有名な町だ。フローラン・シュミットが教育者として活躍した町でもある。アヴィニョンより多少小規模だが、素敵な町だ。ホテルは、庭にプールがあるなどはアヴィニョンと全く同じ。南仏はみんなそうなのかな。昼食は、午後に帰国の途につく長塚おぐ陽子さんとともに、 イタリア風南仏料理(?)の店へ。かまどで焼くピザや、こしのあるパスタがなかなか美味しい店だった。先生や安保さんと一緒に歩くと、食べ物に関してはほとんどはずれが無い。 ありがたい事だ。町の散策は、昨日と同じメンバーで。昨日にもまして楽しかった。最大のハイライトは、でんちゃん→信夫さん→栗山先生→私の順番で、美容院でカットをしてもらったことだろう。私は、海外で髪を切ってもらうのは初めてだった。切ってくれたお姉さんはとてもきれいだった。それにしても、信夫さんにはぶったまげた。ちなみに、男性整髪120FF(約2400円)。安い! フランスはどこでもそうかもしれないが、中でもこのエクス・アン・プロヴァンスは特にファッションセンスにすぐれた町だと思った。衣料を扱っている店はどれも素敵で、全部買いたくなってしまうくらいだ。先生はお土産用の服をがしがし買っていた。
夜は、みんなそろって打ち上げ。一人一言ずつ旅行の感想を述べる。何となくすっきりしない雰囲気を感じたが、まあ仕方ないか、疲れてるし、と思った。そのすっきりしない雰囲気の正体は、この夜に明らかになった。
夜、ホテルでみんなで飲んだ。ここで起きた事は、私の記憶の中からはおそらく永遠に消えることがないだろう。私は、「この旅行を成功させるのはこれからだ。帰国後みんなが、そして自分が、この『響』という合唱団で何が出来るか、じっくり考えることが大切だ。」と確信した。しかし、その道は決して平坦ではない。どうすればいいのだろうか。答えは、ベルギーや南仏の空気の中に存在するような気がしているのは私だけだろうか。いつか、近いうちにもう一度ここに来て、その夜のことをじっくり考えてみたい、と今でも強く思っている。 エクス・アン・プロヴァンスは、私にとって大切な町の一つになった。
5月16日(水)エクス・アン・プロヴァンス〜マルセイユ〜パリ〜(機中泊)
結局ほとんど眠れないまま、帰国の途につくことになった。マルセイユは、14日の自由行動の時に長谷川夫妻や影山が行ってきて、とてもよかったと言っていた。今回は空港だけだが、それでもバスの中から地中海を望むことが出来た。あの湾(リオン湾)の向こう側はまだ行った事が無いスペイン・カタルーニャだ。「世界」を感じる一瞬だ。
ヨーロッパではめったに乗ることの無い「国内線」の飛行機に乗り、再度パリ・シャルル=ド=ゴール空港に到着した。前述のように、本隊だけは余裕で成田行きに乗り継ぐ事が出来た。皮肉なものだ。私などは、帰れなくなる事を願っていたのに。
成田行きの機内では、すいているのをいいことに席を移動し、4人がけの席を真美さんと二人で占領した。そしてずいぶんいろいろと話をした。そして寝た。もやもやした気持ちがずいぶん癒された。真美さんありがとう。
5月17日(木)(機中泊)〜成田〜自宅
そして日本時間の朝7時45分に成田空港に無事到着した。こんな早朝に到着する便は他に無いらしく、空港は「これが成田?」と思うほどすいていた。そして、出迎えに来てくれた人は先生の奥様と高橋さんの二人だった。早朝だから仕方が無いが、ちょっとさびしかった。影山と出迎えに来てくれる人数を賭けたのだが、負けた。10FF払った。影山は嬉しくなさそうだった(当たり前)。
こういう時に、栗山先生の近所に住んでいて本当に良かったと思う。今回も、奥様の車で自宅まで送ってもらった。あまりに申し訳ないので、運転は私がした。何か食べてから帰ろう、という話になったのだが、まだ早すぎてどこも開いていない。かくして、帰国後最初の食事はファミリーレストラン「CASA」で食べる事になってしまった。もちろん、まずかった。ああ、ここは日本…
そして、この店で携帯にメールが来て、團伊玖磨先生の訃報を知った。衝撃で目が覚めた。
帰国後、これほど熱い思いを抱いている「響」に6月6日現在まだ1回しか行っていない。本当に残念なことだ。記憶がホットなうちに、みんなで話し合いたい事がいっぱいあるのに。でも、この旅行記を書くことで、少しはその足しになるのではないか、と信じてキーボードを叩き続けた。2回ほど失敗して数日分の記録が消えてしまったときはもうやめようと思ったが、なんとか気持ちを切らさずに書き終えることが出来た。
そして書き始めてから2週間以上経った今、「序文」に書いた響への気持ちがまだ萎えてしまってはいないということを自分で確信し、長い旅行記を締めくくろうと思う。
響のみんな、響を、そして私を支えてくれる人々、先生方、安保さん、斎藤さん、信夫さん、ありがとう。そして、栗山先生、本当にありがとうございました。
−完−