影山哲也

5月14日(月)<アヴィニヨン(Avignon)・1日フリー観光>

 この日は、全くフリーの日であった。私は今回の演奏旅行を含めて、ここ3年で3回の演奏旅行に参加しているが、今日みたいに朝からそれぞれが自分達で全く自由に行動するのは、珍しいことである。それは、いつもの演奏旅行は移動の連続で、さらに帰国直前まで演奏会があるため、全く自由に行動するようなパターンが組めなかったからである。おそらく、1996年に合唱団OMPが、世界合唱シンポジウムに招聘されてシドニーに行った時の最終日に、1日フリー観光があった時以来だと記憶している。(そんなことをわざわざ思い出すことに、何の意味があるのかとは疑問に思うのだが。。。)でも、私はこのようなフリーの行動が大好きだ。特に外国に来た時は、その思いがさらに強くなる。うまく行動できようが、失敗してチャンスを逃しようが、他人に流されることなく自分で動いて体験したことが、大きな財産になると信じているからであり、実際に過去の海外での行動で、その感じたことが多かったからである。そんな前置きはこれまでにしておいて、今日1日の行動を振り返ってみた。

 朝10:00にロビーに集まった人達でタクシーに分乗して、まずは歌で有名なサン・ベネゼ橋(Pont St Benezet)へ。(“アヴィニヨン橋”と大声で連呼している人もいたが、正確には“サン・ベネゼ橋”である。)橋へ向かう途中、陽気なタクシーの運転手が、いろいろとガイドしてくれた。街のこと、大学のことなど。サン・ベネゼ橋は12世紀後半にローヌ川に最初に架かった石橋である。それまでの経緯、そしてその後の経緯はきっと他の人の日記に現れるだろうからここで省略するが、とにかくこの橋が有名な理由は、橋が川の途中で途切れたままになっていることであろう。その後、750年も橋が繋がれないことに、何か歴史を感じるのである。(ヨーロッパに来て良かったと思うのは、街で歴史を感じることである。)“橋の上で誰かが阿波踊りを踊る!”なんて噂もあったが、少なくとも我々は何もしていない。

 橋から戻り、法王庁(Palais des papes)へと通じる階段を登る。その階段の途中で、高田晴子がアヴィニヨンに住んでいるというモロッコ人(?)にナンパされていたが、その後の彼女の人生に劇的な変化があったかどうかは、未だに解明されていない。ちなみに、高田晴子のその後人生とは関係ないが、法王庁(へと通じる階段を登りきったところから、振り返ってみるローヌ川を中心としたアヴィニヨン郊外の風景は、すがすがしいものであった。

 そうこうしている内にお昼近くとなってしまったので、法王庁前のロルロージュ広場(Pl.de l’Horloge)から細い路地に入ったところにあるお土産屋さんで買い物を済まし、アヴィニヨンのメインストリートであるレビュブリック通りにてランチを取る。(残念ながらこのランチで何を食べたか、すっかり忘れてしまった。ワインを飲んだ記憶だけはある。。。)ランチの途中、にわか雨が降ってきた。しかしながら、実はこのわずか2〜3分程度のにわか雨が、後にも先にもこの演奏旅行で降った唯一の雨であることは、この時点では全く想像できなかった。

 午後からは、特急列車に乗ってマルセイユ(Marseille)へ。特急列車に乗る前に、当然ながらアヴィニヨン駅で切符を買わなければならない。ランチを取りながら、ガイドブックに乗っている列車の切符購入のシステムを読んでおいたおかげで、すんなりチケットを買うことができた。もし、このシステムを知らなければ、マルセイユへの列車を1本逃していたかもしれない。こんなところにも、海外旅行での小さな喜びを感じることができるのである。残念ながら、マルセイユへの行きの特急はTGVではなかった。それでも乗った特急は十分早い列車で、途中車窓から美しい地中海を見ながら、アヴィニヨン駅から約1時間半ほどでマルセイユ・サン・シャルル駅に到着。(きっと、テレビ朝日の“世界の車窓から”という番組で、この車窓は紹介されたに違いないと思った。)駅へ着くと、まず帰りの列車の切符を購入することに。書き忘れたが、フランスの列車の切符購入は、日本の銀行窓口と同じように番号札を取って、呼ばれるまで待つというシステムなのである。ところが、マルセイユ・サン・シャルル駅は混んでいて、取った番号が150番なのに対し、その時点で呼ばれている番号がなんと70番! “あと80人も待つの!?”と思うと、がっかりした気分になるのである。でも窓口番号をよくみると、どういうわけか21番から始まっていた。ということは、窓口番号1番から20番までが他にあるはずと思い、通路を歩くと何とあまり並んでいない窓口があるではないか! ということで、ここでも密かに小さな喜びをおぼえるのであった。帰りはTGVの2等者の切符を取ることができた。

 マルセイユは、紀元前600年から港町としての歴史を持っている。そんな2600年も歴史のある街を散策するというのは、私の旅行体験ではあまり記憶がない。(決して合唱団 響の一部に生息する“記憶が。。。”クラブではない。)と言っても、今では南仏を代表とする大都市になってしまった。そしていよいよ、そのマルセイユの街へ! と思ったが、時計をよく見ると帰りのTGVまでたったの3時間半。“とにかく地中海を見に行こう!”ということで、港へ急いだ。でも、港へ着いたところで、それだけは何もすることがない。ということで、港を見下ろす山の頂に立つ、ノートル・ダム・ドゥ・ラ・ギャルド寺院(Basilique de Norte de la Garde)へ行くことに。この寺院は、1853年〜1864年に建てられ、46mの鐘楼に立つ黄金色の聖母マリアが、街の人々と港を出入りする船を見守ってきた。ところが、その寺院に行く足が見つからない。そこで思いきってタクシーに乗ったが、これがアヴィニヨンの時のように、すんなりとは行かないのだ。まあ、そんな時の交渉も良い経験として、とにかくタクシーで山の頂上へ。まず、“こんな山の頂上に、よくこんなでかい寺院を立てたものだ。”という寺院のデカさに驚く。しかしながら、もっと驚くのは、その頂上から一望できるマルセイユの街並と、水平線までくっきりとして地中海である。これは残念ながら、この誌面上ではその凄さは全く説明することができない。とにかく“凄い”“絶景”なのである。赤いレンガの屋根に白い壁の建物の数々。街並の風景を壊さないためであろうか、高層ビルは全くない。そして反対側に行けば、見渡す限りの地中海。一応、何万キロ先では、この地中海も日本の海とつながっているはずなのに、なぜこんな美しさが違うのであろう。。。と思う程、地中海の美しさは格別なのである。(この美しさも、残念ながら、この誌面上ではその凄さは全く説明することができない。)

 そんな風景を惜しみつつ、再び港に戻ってきて駅までの道を散策。そう言えば、駅から港へ行く途中で、遠くに凱旋門が見えた。ということで、帰りはその凱旋門を通っていくことにした。ところが、その凱旋門に着くと、驚くべきことが明らかになったのである。建物の陰から突然現れた門は、拍子抜けするほど小さい。そう、つまり港へ行く途中と見えた凱旋門は、遠くに見えたのではなく、ただ単に最初から小さかったのである。ということで、我々はその門を“なんちゃって凱旋門”と命名したのであった。ところが、その命名の仕方に問題があったのだろうか、さらに駅に向かう途中で、道の両側にイラン人らしき集団があふれているのであった。それは、さながら何年か前の上野公園と同じ風景であったが、残念ながらテレフォンカードを手に入れることはできなかった。

 再びマルセイユ・サン・シャルル駅に着くと、なぜか人々が時刻表のボードを見ながらたたずんでいた。どうやらニース方面からの列車が遅れているらしいとのことであった。何せ我々が乗る列車が、どのプラットフォームに到着するかも表示されていなかったのである。長期戦を覚悟し始めた頃、突然時刻表のボードの表示が変わり、我々の列車も突然一番端のフォームに現れたのである。ちなみに、この列車(TGV)には、朝から片道5時間近くかけてカンヌまで遊びに行った高基さんと水鳥川さんも、カンヌからの帰りとして乗っていた。(ちなみに列車が遅れているのが、彼等のせいだとは一言も言っていない。。。)到着は定刻だったが、やはり出発はかなり遅れた。結局、アヴィニヨン駅に帰ってきたのが、21時近かった頃であった。

 ランチをちょっと遅く取ったせいか、21時になってしまったものの、ちょうどっ空腹を感じる頃でもあった。そこで、我々はガイドブックに載っているレストランに行くことにした。注文後、22時までにホテルに帰れないことが判明したため、レストランからホテルへ電話して、添乗員の斉藤さんにメッセージを残すことに。ところが、ホテルのフロントの人へ英語がなかなか通じない。結局15〜20分くらい電話機相手に格闘していただろうか。。。(あとで、このメッセージが斉藤さんに無事届いていたことがわかり、格闘も無駄ではなかった。。。)ところで、我々が入ったこのレストラン、メイン通りから2本ほど裏に入った洒落たレストランで、席数も100近くあったと思う。ところが、お客はなんとか我々6人のみであった。食べている途中も誰も入ってこないのである。“このレストランは、実はハズレなのか?”という不安を抱きながら食べるフランス料理もなかなかスリル満点で、貴重な体験だったと思う。

 こうして、フリーな1日が終わったのである。実は、こんな日が一番面白かったりするものでもある。

マルセイユ・かげさん