偉大なピアニストの死を悼む


 以下の文章は、私が学生時代に所属していた「ピアノの会」のOB会報に投稿する
ために綴ったものです。従って、読者対象がピアノ愛好家であることを前提にしてい
ること、また、ピアノサークル内でしか通用しない単語が含まれていることを、ご容
赦いただきたく存じます。また、敬称を略させていただいております。


            偉大なピアニストの死を悼む

                                  貝賀直樹

 6月某日、僕はカザルスホールの最後列で、涙を流していた。女声合唱団「彩」の
演奏会。サラリーマンしてると、なかなかコンサートにも出かけられないのだが、ど
うしても触れておきたい演奏会だった。委嘱新作などもあったが、僕にとっての目玉
は、合唱曲では超古典的レパートリー、三善晃「三つの抒情」。その名をご存知の方
は非常に少ないと思われるが、合唱ピアニストの第一人者、田中瑤子がピアノを弾く
とあって、これは聴いておかなければ、と思った。この合唱曲は、後に詳述するが、
高校生の自分を捉えて放さなかったもの。第1曲『或る風に寄せて』の前奏から、不
覚にも涙が溢れてしまい、僕の耳はピアノだけに吸い寄せられて、合唱団には申し訳
どんな歌唱だったか、全然思い出せない。
 9月、その田中瑤子の、まさかの訃報。闘病生活中という噂は聞いていたし、6月
の舞台姿からも確かに病気の影響が感じられたが、そんなに悪いとは露知らず。先日
の「三つの抒情」が、最後の生体験になってしまったとは。以下、この「合唱ピアニ
スト」という音楽界全体からは殆ど注目されない分野で、前人未踏の業績を残した偉
大な演奏家を、少しでも皆さんに認識していただきたく、拙文を綴りたい。もとより
自分は一介の音楽愛好家で、故人の業績について網羅的に語ることもできず(本来は
現代音楽演奏家としての足跡に触れねばならない)、個人的な面識もないため、故人
の闘病生活やプライヴェート上の事件についての知識もない。彼女の演奏や書き物に
触れた自分の体験からの感想文にしか、なりえないのだが。それでも、故人に対する
自分なりに精一杯の感謝を込めて。

 中学や高校でクラブ活動としても行われている吹奏楽と合唱、この2つのジャンル
におけるアマチュアの活躍は目覚しい。特に吹奏楽のコンクールなど、レヴェルの高
さには驚き呆れるほどだ。私見では、吹奏楽と比較した場合、合唱のレヴェルはアン
サンブル力の点で一歩譲るが、それでも日本の「アマチュア」合唱団は、アマチュア
同士で国際比較すれば世界一の実力を誇る、と言ってよいのではないかと思う。日本
人は何をやらせても器用で、合唱団のレパートリーの幅広さも特筆に値する(ここ数
年は東欧・北欧が大流行)が、その中に邦人作曲家の曲が含まれる。昨今は一切伴奏
を付けない、所謂アカペラの作品が重宝されるが、ピアノ伴奏付き作品の人気も根強
い。正直言って、それらの質は玉石混淆、全てを手放しで褒めることはできない。と
はいえ、作曲家の側もやはり器用で、西洋の音楽語法を吸収した上で、独自性の発揮
に成功した人もいる。その代表が三善晃(1933-)で、その作品演奏に特に大きな功績
があるのが合唱指揮者の田中信昭、そして共同作業のパートナーとしてのピアニスト
田中瑤子である。
 三善晃の手による合唱曲は、既に約百曲に及んでいる。詩の世界を誰よりも深く汲
み取り、音化する能力に長けていて、合唱界で大いにうけている。しかし、それを的
確に演奏するのは至難の技だ。楽譜をご覧になれば、音感に相当自信がある人でも、
音程を正しくとって歌うのは無理、と感じるだろう。楽譜を見ながら合唱の演奏を聴
いていると、音程については大体その付近の音、という程度のことが殆どだ(これが
残念ながら、例えばコンクールで全国優勝するレヴェルの団体にもあてはまる)。そ
の点ピアノは、鍵盤を正しく押せば、楽譜に書かれた音が当然に鳴る。三善のピアノ
独奏曲と言えば「アン・ヴェール」や「ピアノソナタ」を想起する人もおられるだろ
うが、合唱曲のピアノパートでも、独奏曲と同様の、独特の抒情と切れ味のある音楽
を楽しむことができるのだ。特に初期作品が出色、60年代の「三つの抒情」「月夜三
唱」「五つの童画」、70年代前半の「オデコのこいつ」などは、僕にとって、かけが
えのない名曲だ。また、三善晃のピアノ付き合唱作家としての業績の一つに、80年代
以降になって、「2台ピアノ」ないし「ピアノ連弾」伴奏による合唱曲、という編成
の可能性を拡大したことがあると思われる。2台ピアノという演奏形態の魅力につい
ては、ピアノの会の皆さんには説明不要だが、三善の合唱作品の中での2台ピアノ部
分は、これを合唱人の中だけに留めておくのは惜しいくらい(或いは、逆に誰にも教
えたくないくらい)、ちょっと凄い。作品を音で聴くためのCDについては後述する
が、84年「田園に死す」の凄惨なまでの美の表現には驚いたし、87年「海」の煌く輝
かしさは、2台ピアノならではの演奏効果。個人的には、古今の「海」をテーマにし
た音楽の中では、これが最も気に入っている。また、5つの有名な唱歌の編曲集「唱
歌の四季」は、今日の合唱団のプログラムに登場する回数が特に多い人気曲で、合唱
部分はともかく、意外な転調(ピアノが無いと達成できない!)やリズムの妙に耳が
吸い寄せられる。

 さて話が自分の事になって恐縮だが、僕は中学に入学してから合唱と接し始めた。
学校の合唱部の伴奏ピアニストを始めたのだが、これは幸福な出会いだった。何しろ
僕は、街のピアノの先生に6歳から習ったものの自己流で、練習も嫌いでツェルニー
30番がアップアップというレヴェルの稚拙な指しか持たず、とてもソロなんてやれな
いが、これも後述するが伴奏者(特に合唱の)に要求される資質には、人よりも恵ま
れていたという自覚もあって、すっかり「合唱ピアニスト」という立場にハマった。
もちろん合唱そのものにも惚れてしまい、高校の3年間は、歌ったり弾いたり指揮し
たり、合唱のことしか考えない毎日だった。実は大学入学時には、ピアノの会には早
速入会したものの、「高校であれだけやったので、もう合唱は止めよう」と思ってい
た。しかし、大学の合唱団柏葉会が三善晃の新作を委嘱初演するという話だけに惹か
れて、迷った末、オンボロの練習場を訪ねたのだった。なお、その初演作品「地球へ
のバラード」がピアノの入らない無伴奏曲だったことには、激しく失望したのである
が。こうして合唱との接点は切れず、高名な合唱指揮者に師事する経験にも恵まれた
学生時代だった。もうここまでくれば、一生合唱とつきあい続けるだろう。
 僕が「三善ってスゴイ!」となっちゃったのは中学生の頃、愛媛県の西条高校によ
る、組曲「五つの童画」の終曲『どんぐりのコマ』の全国コンクールにおける演奏で
だった。ここまでの文脈と矛盾するが、この曲の冒頭、ピアノが入るまでの無伴奏で
奏される部分は、この世の音楽の中で最も美しい物の一つと個人的に思うに至ってい
る。大学進学以前の三善体験では、やはりコンクールにおける、栗山文昭指揮合唱団
OMPによる、同じ組曲の第4、5曲の演奏も忘れられない。そこでピアノを弾いて
いたのが、記憶違いでなければ田中瑤子だった。この演奏で、僕は合唱指揮者の栗山
文昭と合唱団OMPの凄さも初めて認識した(ついでながら、合唱CD収集家として
は、栗山+OMP+瑤子のコンビでの「五つの童画」全曲の新しい録音を切望してい
た。しかし、僕の念願は永遠に果たされることはない)。そして、高校の音楽室で聴
いた、三善晃の女声合唱曲のLP。田中信昭指揮東京混声合唱団、ピアノはもちろん
田中瑤子。それに収録の「三つの抒情」に、曲・演奏共に魅せられた。その感動があ
るから、僕は迷った挙句、大学入学時に合唱を止めなかったのだ(終曲の『ふるさと
の夜に寄す』のような曲を、委嘱初演に望んでいた)。それにしても、この組曲のピ
アノの魅力は、陳腐な言い回しになるが筆舌に尽くし難い、特に3つの曲のうちの両
端の2曲。これらの曲を合唱抜きで、合唱部分を頭で鳴らしながら自分ひとりでピア
ノを弾くことは、今日に至るまで、ピアノも好きな合唱人たる僕の最大の贅沢だ。こ
の高校時代からの想いが、今年の6月に僕をカザルスホールに向かわせ、そして涙腺
を弛めたのだった。
 田中瑤子が「合唱ピアニスト」として著名なことは、もちろん中学時代から知って
いた。合唱ピアニストとして上手くなりたいという志を持った自分には、録音で聴く
彼女の演奏は模範だったし、合唱の伴奏のノウハウに関して、各所で目にした彼女の
言葉に影響されないわけがなかった。上京後は、多くの実演に触れることもできた。

 ではここで、合唱ピアニストに求められる資質について触れてみる。以下は、僕が
田中瑤子の言葉や演奏に影響を受けて考えた物で、彼女が優れている点ということに
なる。
 大前提として、当然ながら、ピアニストは主役ではない。かと言って、おとなしく
してればいいというものでもない。大作曲家たちの歌曲伴奏でもそうだし、ピアノの
役割が更に重要な邦人作曲家の合唱曲(例えば三善晃「三つの夜想」など、僕には合
唱は単なる付け足しとしか感じられない)なら、ますますピアニストにかかる責任は
大きい。
 まず、ミスタッチをしてはならない。三善晃作品なら合唱曲のピアノパートも相当
に技巧的だが、それでも、合唱ピアニストに要求される指の回りは、ソロに比べれば
低レヴェルだ。だからこそ、ミスは許されない(残念ながら僕の指は凡庸で、三善の
ピアノパートをミスなく弾くなんて芸当はできない)。特にアマチュア合唱団の伴奏
となれば、ピアニストのミスが歌手たちに与える心理的影響は大きく、その結果、体
内楽器を使用する歌唱という行為への悪影響も甚大だ。
 合唱が入らない、前奏や間奏などはピアノが裸になる。ここぞ!と出ていって、指
揮者や歌手や聴衆に音楽的感銘を与えたい。ここでミスするなど、論外。
 演奏楽曲について、誰よりも(当然、指揮者よりも)勉強しておかなければならな
い。 曲の勉強なんて当たり前じゃないか、と言われそうだが、合唱ピアニストの場
合、ソロや室内楽とは違う側面からの意味がある。合唱指揮者は、声についての知識
は豊富でも、残念ながら棒が拙いことが多い。指揮者の動きが、アンサンブルの邪魔
になることすらある。歌手たちは、当然にピアノに合わせていく。そして合唱がピア
ノに合わせるようしむけるためには、ピアニストが音楽の流れを作っていかねばなら
ない。ステージ上での事故に咄嗟に対応する、なんてこともアマチュア合唱団の演奏
では日常茶飯事。そのために、指揮者よりも曲を知っておく必要がある。そしてその
ことを、合唱団の誰にも悟られてはいけない。主役は指揮者と合唱団だ。特に指揮者
のプライドを傷つけちゃいけない。人に気づかれず勉強しておくのだ。「実は自分が
音楽を作っている」自負は心の中だけ。作曲家や管弦楽指揮者に名伴奏者が多いのも
当然の成り行きだ。技巧レヴェルだけならしかし、日本人のピアノ専攻者は優秀で、
田中瑤子は東京芸大でピアノを専攻、この水準の技術を持つピアニストが伴奏に参入
した事実が貴重と言える。余談になるが、経歴によると、通俗名曲の使徒としか思わ
れていない、あのハンス・カンに師事したことがあるらしい。僕らの持つカンのイメ
ージとはミスマッチで、面白い。もう一つ余談だが、日本人ピアニストとして最高の
技術を持つ一人と思われる野島稔が間宮芳生の合唱曲を弾いたことがあるが、これが
凄かった。こういうピアニストに参入して欲しいものだ。
 文字通り「歌のある」ピアノを心がけたい。昨今の超有名ピアニストたちによる、
無味乾燥な演奏の跋扈には呆れるが、彼らの人気ぶりを考えると、ピアノ教師たちの
ピアノを歌わせる技能への関心も低いのだろう。管弦楽を伴う作品と異なり、合唱の
場合は、大袈裟な喜怒哀楽よりも、微妙な感情変化の表現が要求される(これが余り
に微妙な物だから、合唱に全く興味が持てないという人が多くいるのもまた、理解で
きる)。例えばホルショフスキーの演奏を参考にして、常に自然に歌うピアノを実現
したい。ということは、音そのものが美しいタイプが伴奏ピアニストに向いている。
特に弱音は要。
 ステージ上の成果とは関係が薄いが、練習の過程に関わる点として、初見能力も必
要。楽譜を初めて見た段階で殆ど弾ける(ソラブジのソロ作品じゃないのだから)こ
とはもちろん、数回繰り返せば全曲の構成も理解できるレヴェルでありたい。多くの
曲を短時間にものにすることは、伴奏ピアニストに特に必要な能力だ。
 これらのことは、一見いとも簡単そうだが、田中瑤子ほどこれらの能力を備えた人
(練習風景を知らないから初見能力については不明だが、低いとはとても思えない)
を、僕は他に知らない。

 合唱ピアニストは他にもたくさんいるし、僕も才能ある数人の名前を挙げることは
できるのだが、田中瑤子ほど、演奏や文章を通じて、他のピアニストは勿論、合唱歌
手に(演奏中に)影響を与えられる人は、残念ながら現在まで見当たらない。歴史は
始まったばかりだ。日本には、現代音楽の優秀な演奏家が多数存在する。彼らが合唱
にも参入してくるとよいのだが、現状は必ずしも合唱にとって有利ではない。既存の
合唱ピアニストの更なる成長とともに、新しい才能の出現を期待したい。ピアノの会
の仲間と共に、アムランのような新しいタイプのピアニストを追いかけていると、田
中瑤子を超える合唱ピアニストも見たくなる。そのために彼女の名前を語り継ぐこと
が、自分の故人への感謝を表現する一番の方法なのだ。僕自身は、逆立ちしたって田
中瑤子になれないのだから。

 僕の拙文では、わかることもわかっていただけないから、最後に、録音で聴ける田
中瑤子について触れておく。本当は、この機会に、「田中瑤子完全合唱ディスコグラ
フィー」を作りたいと思ったのだが、時間も情報収集能力もないので、ここでは主な
録音だけ、それもCDとして発売された物からセレクトしてコメントしておきたい。
合唱は売れないから、供給も少ないと言われて久しいが、実はそんなこともない、結
構な種類が市場に出ている。ここに挙げる盤以外にも、高価なセット物でしか買えな
い音源もある。
 合唱のCDは、録音状態に恵まれない物揃いで、ピアノについても、実演の音を伝
えるという点では失敗している。それもあるし、合唱に目がハートの僕と違って客観
的に聴ける、ピアノに関して耳の肥えた読者の皆さんなら、「なーんだ、この程度で
いいの」と思われるかもしれない。しかし、繰り返しになるが、これは決して簡単な
ことではない。

 まず、要の三善晃作品から。

1.こんなときに、音の森(抜粋)、海の日記帳(抜粋)、カイエ・ソノール、
 唱歌の四季(フォンテック)86年録音
 ここで挙げる中で唯一、合唱が入らないピアノだけのアルバム。三つの独奏曲と、
 連弾のための「カイエ・ソノール」、それに本文中で触れた「唱歌の四季」を2台
 ピアノだけで演奏できるように編曲した版。連弾と2台のパートナーは、頚椎の痛
 みから解放された直後の作曲者自身。当盤を聴くと、生演奏はこんなもんじゃない
 のにな、という不満を覚える。特に三善自身のピアノだが、彼がピアノに触るだけ
 で会場に妖気が漂う、あの恐ろしいくらいの、立ち会った人間には至福の瞬間が、
 録音では伝わらない。いずれにせよ、ピアノのファンに最も薦められるアルバムと
 いうことでは、これになろう。

2.三つの抒情、三つの夜想、麦藁帽子、小鳥の旅、えびがはねたよ、雪の窓辺で、
 林の中/田中信昭指揮 東京混声合唱団の女声(ビクター)86年録音
 レコードアカデミー賞を受賞したので、一般の音楽ファンにも、相対的に馴染みが
 ある盤であろう。上述した「三つの抒情」の60年代のLPは、この新録音が出てし
 まったため、未だにCD化されていない、残念。こちらの方が、合唱団の演奏が美
 しく磨かれているものの、表層を舐めた感じで、説得力に乏しいからだ。しかし、
 田中のピアノに関しては、デジタル録音で楽しむことができる。ここでは、演奏は
 ごく簡単な小曲「小鳥の旅」が忘れ難い。上述のLPで聴いて一目ぼれした記憶の
 ある曲だが、これは、実は僕の最も好きな三善作品かも。無限の愛があって。

3.動物詩集、田園に死す、海/栗山文昭指揮 合唱団OMP(カメラータ)87年ライブ
 上記文中で触れた2台ピアノのための2大名曲「田園に死す」と「海」を収録。前
 者はプロ合唱団の東京混声合唱団が初演したものだが、アマチュアの最高峰にある
 合唱団OMPの凄演は初演を超え、正に驚異。「海」は当演が初演、傷もあるし、
 最後のハイCのロングトーンは耳障りだが、初演ライブならではの“熱”が有無を
 言わせぬ説得力を放射、邦人合唱曲CDでは最高峰の一つに位置付けたい程。僕は
 当盤を購入して暫く、これを聴かないと眠れなかった(聴いてしまうと、もっと眠
 れなくなった)。2台のパートナーは浅井道子。「動物詩集」のピアノは田中瑤子
 一人。無伴奏の「地球へのバラード」(柏葉会の委嘱初演作品)も入っている。

4.街路灯、五つの唄、三つの夜想/栗山文昭指揮 女声合唱団るふらん他
 (フォンテック)85,90年録音
 「地球へのバラード」が無伴奏だったことに失望、と本文中で述べたが、三善の作
 品表を眺めると、その前年の女声合唱曲「街路灯」で、僕の理想に近い曲は成就さ
 れていたのだった。全5曲のうち特に最初の2曲の抒情は忘れ難い。もちろん、そ
 の表現に最高に寄与しているのが田中瑤子。上記の東混盤にも入っているが、合唱
 は付け足しと述べた「三つの夜想」も聴ける。この曲は、もう僕の指では全く歯が
 たたず、音楽的にも難しい。しかし、指が回る人には、このピアノパートは最高の
 楽しみを与えるだろう。

5.五つの童画/田中信昭指揮 東京混声合唱団(ビクター)73年録音
 この、未だに邦人合唱曲の最高傑作と位置づけて差し支えない名曲「五つの童画」
 を、嗚呼、田中瑤子が新しく録音してくれていれば!当盤で寂しさを紛らわせるし
 かないのだが、この狭いスタジオに押し込まれたような音をどうしてくれよう。当
 盤には無伴奏の「嫁ぐ娘に」と「小さな目」、加えて男声合唱にピアノが付く「王
 孫不帰」を収録。「王孫」のピアノは田中瑤子ではない。

6.オデコのこいつ、狐のうた/田中信昭指揮 東京荒川少年少女合唱隊(ビクター)
 74,75年録音
 ビアフラの悲劇をもとに作曲された児童合唱のための名曲「オデコのこいつ」と、
 三善作品でも最も挑戦的な「狐のうた」。前者はキングから別音源が出ていたが、
 そちらが廃盤で入手が難しいので、このビクター盤を推薦。つい最近CDで復活し
 た音源だが、これは嬉しかった。それにしても「オデコ」は怖い。特に第3曲「ゆ
 め」は、聴いて身の毛もよだつような恐怖感がある合唱曲の最右翼。こんな曲のピ
 アノが自在に弾けたら、幸せだろうなあ。

7.風のとおりみち/田中信昭指揮 ひばり児童合唱団(ビクター)86年録音
 こどものための単純な合唱曲を集めた「風のとおりみち」。録音のせいもあるが、
 田中瑤子ならではの個性を感じ取るのは難しいように思う。カップリングの「光の
 とおりみち」は少し上級編で、ピアノは浅井道子が担当。

8.愛の歌、夜と谺/栗山文昭指揮 栗友会(カメラータ)97年ライブ録音
 「愛の歌」のピアノは瑤子一人、「夜と谺」は浅井道子との2台。90年代の混声合
 唱曲のアルバムで、田中以外のピアニストが弾く曲では「カムイの風」と「五柳五
 酒」を収録。個人的には、初期作品ほどには夢中になれない作品ばかり。会場で生
 で聴いたコンサート。

9.遊星ひとつ、海 他/栗山文昭指揮 栗友会(ビクター)93年ライブ録音
 アザラシの赤ちゃんのジャケット。「地球の詩」と題された演奏会の記録。男声合
 唱とピアノ(四手)のための「遊星ひとつ」の、合唱団の爆演(この手の爆発が合
 唱の録音で聴けるのは珍しい)が聴き物。この組曲の終曲『バトンタッチのうた』
 は歌謡曲化してる(合唱仲間には怒られるが)と思うが、栗友会の男声の叫びっぷ
 りは、会場では、もっとすさまじかった。連弾のパートナーは中川俊郎。「海」で
 は、ピアノと合唱が盛大にずれて、僕は客席で肝を冷やした。全体に、ピアノの音
 は余り心地よくない録音で、ピアノを楽しむには不適。また、上記8.もそうだが、
 楽譜を見ながら聴いてみると、2台ピアノないし連弾の場合、2人の奏者のアンサ
 ンブルは、決して良くない(単純な話、音を発するタイミングすら揃わない)。こ
 れは、曲の難度の高さが主な原因ではないかと思う(アラ探しは簡単だが、自分で
 上手くやれる筈もない)。

 続いて三善以外の作曲家の作品で、合唱の世界だけに閉じ込めておくには惜しい、
重要と思われる録音を選んで挙げておく。田中瑤子がピアノを弾く録音自体は、この
他にも多数出ている。

1.野田暉行/青春、有明の海/田中信昭、作曲者指揮 東京混声合唱団(ビクター)
 82年録音
 現代音楽の世界でも実力を発揮する作曲家の合唱への参入という点で、この野田作
 品は喜ばしい存在。ピアノパートも一味違う入念さ。合唱団の演奏が安全運転過ぎ
 て楽しめないように思うが、とにかく貴重な録音。

2.小林秀雄/瞳、飛騨高原の早春、落葉松、前奏曲、九州民謡によるコンポジション/
 伊藤栄一指揮 東京カントライ他(ビクター)82年録音
 合唱の世界だけに閉じ込めるのは惜しい、とは言い難いかもしれないが、ピアノが
 関係ない併録曲「優しき歌」も含め、当アルバムに一貫する抒情は捨て難い。「落
 葉松」は歌曲としても親しまれているが、このピアノパートを美しく弾くことは、
 僕にとっても目標となってきた。滅多に演奏されない混声合唱のための「前奏曲」
 における田中瑤子のピアノは特に見事だ。

3.松村禎三/暁の讃歌/田中信昭指揮 東京混声合唱団他(ビクター)80年録音
 田中瑤子を聴くというよりも、作品そのものに注目していただきたい一枚。松村禎
 三の「ピアノ協奏曲第2番」と並ぶ名作で、リグ・ヴェーダをテキストにする「暁
 の讃歌」。欲を言えば、合唱団には、もっとしっかりやってほしい。なおこの盤の
 タイトルは「現代合唱曲選集1」で、芥川也寸志、湯浅譲二、高橋悠治の独創的な
 作品を収録している。

4.柴田南雄/三つの女声合唱曲、二つの混声合唱曲/田中信昭指揮 東京混声合唱団
 (ビクター)78,81年録音
 これも田中瑤子を聴くというより、柴田南雄という「知の作曲家」と形容された人
 物の業績に触れるという点が重要のアルバム。無調で合唱する試みは、なかなか興
 味深い。かと思うとピアノが入る混声合唱曲は、ごく普通の、作曲者の言葉を借り
 れば「よくハモる」作品。

5.林光/動物の受難/田中信昭指揮 東京混声合唱団(ビクター)72年録音
 これもまた、ピアノの出番は僅少で、作品を聴くべきアルバム。林光の戦争をテー
 マにした2つの合唱曲「動物の受難」と「原爆小景」を収録。後者は、日本の戦後
 音楽の歩みを語る上で、重要な存在になるだろう。

(以上、文中敬称略)

高田 憲一(mugen.takada@nifty.ne.jp) / 林 瑞絵(mizue-h@mtg.biglobe.ne.jp)