物や情報がかくも過剰に溢れ、巨大な流通システムが日常のここかしこを支配しようとするこの世界で、ボクらの生の声や身体はとり残され途方に暮れようとしているのではないだろうか? 声や身体が本来持つ力や魅力を忘れ去ろうとしているのではないだろうか? そんな現代(いま)だからこそ「声・身体」の「いま・ここ」と「想像力」の「いつか・どこか」を劇場の時間や空間に重ね合わせようと必死になる訳だ。
音楽は対話を喚起する。音楽を表現と言い変えるとわかり易い。
表現は「他人」を発見する行為であり「他人」を作り出す作業であり、またその「他人」と絶えることのない対話を生み出す営為でもある。見て、聴いて、同意し或いは異を唱え批評し時に激し時に安らぐ関係である。その関係は面白く展開すると、お互いのこれまでの知覚に作用し意識を拡げ一つの事柄を一様なものとしてしか見なかった視点を多種多様に見てとることを可能にする。一つの考えしか持てなかった「私」に幾つもの考え方があることを示唆する。この世界は実に雑多な「声」で満ちていてすぐそこにある「自由」を気付かせる。新しい世界を感じさせる。
ところで歌っているキミの身体はその時どこにあるのか? 他人や世界をともすると共振させる声を発しているキミの個性的な表情や身体はその時何を表現しているのか?
どうやら「表現」さえも並べて均一化し消費してしまおうというのが今日の世界であるらしい。コンビニや百円ショップの陳列棚に納められる前に完結することのない交流や対話を生み出すためにも顔をつき合わせる他人に向かって表情や身体をも使うべきなのだ。極めて素朴なこうした人間的行為こそ特権的な価値観を打ち壊し表と裏の永続する交換を可能にするはずだ。