合唱団『弥彦』夜と谺(こだま)〜対談「宗左近、三善晃」


 合唱団弥彦で三善晃氏に委嘱された合唱曲『夜と谺(こだま)』によせて、作曲の
三善晃と、詩人の宗左近氏の対談が行われました。
 この文章は当日の会場録音テープから起こしたものです。

  日時:1996年 8月25日(日)18:30開演
  場所:弥彦総合文化会館大ホール(新潟県弥彦村)

宗  座る?   (客席笑い) 三善 何も打ち合わせしていなくて、そういえばこういうことがあると、何年か前に   田辺さんから言われたことがあったなあと先ほど思い出していたところです。   どうしましょうか? 宗  僕からしゃべった方が良いような気がするので一言。    今日、弥彦に夏が参りました。あれ、僕は大好きなんですが、それ以来さっき   までの佐渡おけさ、大変楽しく聞きました。   それで僕は三善さんの作品そのものが大好きな男なのですが、またそれとは少し   ずれて、三善さんの編曲が大好きです。というと三善さんに失礼なのかな?そう   でもないと思います。それについて少し、三善さんが何かおっしゃってくれる   ことを引き出すつもりで次のことを申し上げます。    編曲なさるということは、すでに前に言葉が出来ていて曲が出来ている。その   ほとんどが、(三善さんに向かって)いまのカチューシャは日本人の作品ですね?   たいていの場合日本人の作品、言葉も曲も。それを三善さんが新しくが再創造し   て、原詩と原作の持っていなかった命のきらめきをはじけ出さして下さる。    その時に強く感じましたのは、これは伝統と言うこと、歴史と言うことなんで   すね。    ぼくはいつも日本の音楽界のことを遠くから見ていてわからないことがあるん   ですね。音楽の世界ではどうも西洋が先生である。ひょっとしたら日本の音楽家   は西洋人になることを目的にして音楽を勉強しているのではないかと、錯覚する   ことさえ有ります。    新聞を見ても音楽の批評は年にほとんどないですね。たまにあって読みますと、   外国のオケの演奏批評であって、バッハ批評でもベートーベン批評でもない。そ   ういうヨーロッパの演奏技術の批評を、日本の評論家というのは一生懸命やって   いてそれだけなんですね。    今日のようなすごい音楽会の音楽批評が明日新潟日報に出るでしょうか?   出して欲しいと思いますね。   出るなら私はまだ日本に期待をするのですが、多分出ない。したがって僕は絶望   はしていないが大変悲しい思いがいたします。    日本の音楽、それは日本人が作る音楽、日本人が演奏する音楽、あたりまえで   すね。それにたいしてだれも応援したり、拍手したりしないのは日本がもはや   植民地になっているからではないかと思うのです。    ところが、三善さんの編曲した音楽はまったく日本の音楽、これこそ、と思う   ところが強くあって、それが僕を打つんですね。   今さっき言った、それは日本の伝統、歴史のなかから三善さんが新しく吹き起こ   し、はじけ出さしてくれる新しく創造された音楽ということが多分僕を感動させ   る五割くらいの要素だと思います。    あとは、音楽そのものが素晴らしいからですね。    たとえば、     …ちょっとしゃべりすぎます、お許し下さい。    佐渡おけさ、あれは十数年前に草柳たいぞうさんという評論家の方に連れられ   て新潟の鍋茶屋に行きました。そして「新潟芸者の歌い踊る佐渡おけさは雨が降   るよ」とそう草柳さんがおっしゃって、それを聞きました。そしたら驚いたこと   に本当に雨が降りました。びしょぬれになって帰って参りました。    ところが今の三善さんの佐渡おけさは雨も降りますが雷が鳴りますね。そうじ   ゃないですか?そうであると思われる方は強い拍手をお願いします。   (拍手)    ただ僕の願うことは、今日の演奏者のすべての方々が、口に缶ビール一本を飲   んだ上で演奏して下さればもっと良いのではないかとそう思います。   勝手なことを言いました。 三善 あの、最初に宗さんは私を引き出すとおっしゃったかと思いますが、もう   どうでしょうか、これでもうこの対談は…   (客席笑い)   完璧になったという気がします。    宗さんがおっしゃった伝統と言うことを言えば、それを私たち作曲家に知らせ   てくれたのは合唱を歌って下さる皆さんたち、特にアマチュアの合唱団と呼ばれ   る、それを仕事ではなく生きていくことのもっとも率直な表現として歌うことを   愛している、全国にたくさんいらっしゃる今日歌って下さったような合唱人間た   ちが、自分たちのことば、母国語を歌いたい。そういう意識で、昭和50年代から、   作曲家、詩人の方々を触発してくれたために今こうして私たちがこういう共同す   る場というものが生まれたのですね。    それだけではなくて、日本の伝統、言葉、母国語、その水脈の上に、自分たち   が生きていくことの表現としてそれを歌うと言うこと、それを世界の人にわから   せていくためにどうしたらいいかということについても、いまや合唱を歌ってい   る方々の方が私たち作曲家よりもはるかに深く真摯な意識を持っていらっしゃる   と思います。    思い出すのはたとえばハンガリーのバルトークは晩年アメリカに亡命しそして   そこで死んでいったわけですがその時に、どんなに母国語のマジャール語を死ぬ   ほど、そして死んでしまったわけですが、恋いこがれたか。    ロシアがソ連になったときに祖国を捨ててアメリカに行ったプロコフィエフも   数年たったら、「私はロシア語の世界に帰らなければならない」という悲痛な叫   びをあげて、そしてアメリカから母国、ソ連ですけど、に帰って行った。大地に   帰っていったんですね。    そこに営みが有れば、それがたぶん生きている伝統と、宗さんが言ったものの   一つの形だと思うのです。   あと、宗さんになにか一言いっていただいたらいいですね。 宗  では、三善さんの今のお話に関連のあることを一言。    縄文連祷という合唱曲(宗左近詩、三善晃曲)があって、それを今まで僕は三回   演奏会で聞きました。一度はプロの、二度はアマチュアの皆さんの演奏です。   それを聞いてはっきりわかったことがありました。    プロの方は技術が大変上手いんですね。しかし、しばしば技術倒れになること   がある。アマの方はたぶんプロより上手くないのかも知れないけれど、技術を越   える力がある。すくなくとも、僕が聞いた縄文連祷の演奏のなかでは、アマとい   うより、名前を言っても良いのですが、OMPの演奏がきわめて力強く良かった   です。これはなぜか?    それはたぶん、つぎの理由からです。    アマの方は小学校の先生とか、魚屋さんとか、生活を持っている。生活のなか の喜びや苦しみ、それを突き抜けての祈りのような物を抱かないと生きてゆけ ない。そういう生活人の持っている強い願い。それをプロの方々はあまり強く 持っていらっしゃらないんじゃないかと、大変失礼ながらそう思いました。   プロの方は音楽家ですから、その世界のなかでの生きる苦しみや祈りや努力を持   っていらっしゃるでしょうが、アマの人々が持っている祈りほど、強くも遠くへ   行く力も、どうも持っていないのではないか、と思います。そのせいで、演奏の   違いが強く出てくるのではないかと思いました。    それからもう一つ、栗山さんが委嘱して出来た「海」が初演された後のパーテ   ィーで僕は次のことを言ったのを覚えています。    合唱というのは、そばに並んでいる人たちと声を合わせて歌う。聞いている観   客の方々と、観客の方々は声は出さないけれど音にならない声を出して合唱する。   それだけでなく、もっと遠くにある、はるかに見えない物と会場の歌声が合唱す   ることなのではないかと思った。    そういう合唱に近かったから、「海」という合唱の演奏が。いまあらためて僕   はそう思っています。    話しは長くなりますが、多分三善さんもご存じの、みなさんもご存じの、スペ   インの国境に近いフランスの片田舎のルールドという聖地と呼ばれる町がありま   す。    もう三十年前のある夏、そこに伺いました。そうすると、その町にある大きな   教会の聖職者の行列がありました。そこで賛美歌を歌っていました。    それに従って約千人あまりの方々が歩いて行列をしておいでです。そのすべて   の方々が車椅子に乗っています。    その通りを右左に挟んで、約二千人ずつくらいの世界から集まった方々が立っ   ておいででした。    その合唱の行列は進んでいきます、遠ざかります、消えてしまいます。    僕はその片側に並んでいて声を失って見送っていました。   その時思いました。この合唱が今日行われる。来年行われる。再来年行われる…。   けれど、この車椅子の人々がこの合唱の力によって立ち上がることはないであろ   う。それでは、合唱というのは虚しいのか?   虚しくないと思いました。    その両側に立っている人々のなかに子供さんがいました。放送もされていまし   た。放送を聞いている子供さんも世界中にいると思います。その子供さんが、合   唱を聴くことによって促される。    車椅子の人が立ち上がるために、あなた努力しなさいねという声が合唱のなか   から聞こえて来るに違いない。少年少女に届くに違いない。    子供は医学を勉強するかも知れない。    勉強しても、その少年が死ぬまでその医学によって足萎えの人が立ち上がる日   は来ないかも知れない。そういう状態が、50年、100年、200年続くかも知れない。   けれどもやがてある日、その少年少女の孫か曾孫の時代に、一滴の注射によって   たちまち足萎えの人を立ち上がらせることが出来るかも知れない。   すくなくとも、そういう立ち上がることの出来る期日が100年後だとすると、100   年後よりたとえ30日前であろうと、その期日を早める力をその少年少女、子孫た   ちに与えるものを、この合唱曲は持っているのではないかと思ったのでした。 三善 ありがとうございました。    合唱団弥彦の皆さん、これからも、そしてこれから歌うと言うことの意味は、   今宗さんが言ったことだと思うのです。    つまり、ここにいるみなさんへの歌声を聞いてもらうと言うこと、ここの空間   に響きが満ちると言うことだけでなくて、おそらくぼくたちがどこかから声を聞   き取ってくる、そのどこかへ、皆さんたちの、聞こえない声が届く。それが歌な   んだろうと思うし、みなさんがそうやって歌って下さると思っています。    宗さんどうもありがとう。  (拍手)
付録:  この対談の後に演奏された、『夜と谺(こだま)』の感想を付しておきます。 ●夜と谺(宗左近詩・三善晃曲)  詩集は「藤の花」と言います。詩人の宗左近氏が子供の頃、北九州の実家に父 の丹精した藤の花があったそうです。  花の印象を頼りに書かれたこの一行詩集から、氏が25歳ぐらいの時、東京大空 襲、B29の落とした焼夷弾のなかを母とともに逃げまどった経験を、詠った作品 の中から取って、三善晃が作曲した物です。  三善氏は美しく、厳しく激しい曲を書きました。  冒頭の  「夜が真昼 鳴き声たちの火の飛沫」  という、記憶のなかの情景にズームアップしていくような緩やかだがシンとす る響き。そして、眼前いっぱいに立ちふさがる激しい「火の飛沫」  一行詩は、次々と燃える詩の情景を詠います。  そして、クライマックスに向かって、飽和していく音響、響きと叩くような リズム、叫び。  「火をつけられなくて闇 つけられて闇 殺さなくて闇 殺して闇」  「炙られて火 炙られなくて火 目をあけて火 目を閉じて火」  「空燃える 地より天への大瀑布」  そして、視線はロングに退いていくのだけれど、もはやどこまで退いても視界 いっぱいの炎。  そして記憶はいっぱいの炎のなかで途切れ、最後に静かに鎮魂の祈りのように 響いて曲を閉じます。  「曼珠沙華八十八万本 狂い咲きした夜でした」

written by唐澤清彦, edited by 藤平 <thompay@mbe.nifty.com>