追悼・石丸寛先生 |
地方の音楽文化の育成に力を尽くし、テレビ番組「題名のない音楽会」などで親しまれ、
合唱団OMP(栗友会)でも、演奏をご一緒したことのある
指揮者の石丸寛(いしまる・ひろし)先生が、1998年3月23日午後6時15分、大腸癌のため、
東京都港区の病院でお亡くなりになりました。76歳でした。
中国・青島生まれ。東京の文化学院で美術を学ぶ画家志望で、音楽は独学に近かった が、指揮を山田一雄氏に師事した。第2次大戦に出征し、復員後住んだ福岡市で、財界 などにオーケストラの設立を働きかけ、九州大学のOBや、NHKが熊本と福岡で組織 していた放送管弦楽団のメンバーを中心に九響を発足。1953年10月に初代常任指 揮者として第1回コンサートを開いた。 公演を重ねるうち、「自分自身、もっと音楽の勉強が必要」と、56年11月の定期 演奏会後に上京。64年、作曲家・黛敏郎氏と共に、東京12チャンネル(現テレビ東 京)系で「題名のない音楽会」を始めた(後に現テレビ朝日系に移る)。 73年から約20年間手がけた「ゴールドブレンドコンサート」では、日本各地にお もむき、地元のアマチュアオーケストラや合唱団を、ときには数カ月にわたって指導し て演奏会を開き、一部はテレビで放映した。 合唱関係者にとって関わりの深いところでは、85年から始まった両国国技館で全国の アマチュア合唱団を集めて歌う「五千人の第九」の発案者であり、このイベントは指揮 者を代えて98年の現在もなお続けられている。 94年秋、腸にポリープが見つかり、癌と判明。翌3月手術したが、肝臓や肺にも 転移していた。闘病の一方で、九響の要請を受け、95年10月に「人生最後の仕事」 として九響音楽監督に就任し同響常務理事も兼ねる。 入退院を繰り返しながらタクトを取り続け、97年4月には「石丸寛 指揮生活45周年 記念 東京交響楽団特別演奏会」にてドイツレクイエムを指揮、そして97年12月の コンサートが氏にとって最後の舞台となった。
'97 | ブラームス/ドイツ・レクイエム | BMG | BVCC-1514 | |
ソプラノ:澤畑恵美,バリトン:木村俊光 合唱指揮:栗山文昭,栗友会合唱団 東京交響楽団,指揮:石丸寛,Live at Suntory Hall,Tokyo,17 April 1997 |
ブラームス没後100年ということで各地で演奏会が開かれた'97でしたが、 それに加えて石丸寛指揮者生活45周年記念という演奏会にドイツレクイエムを やることになり、合唱を栗友会合唱団で担当することになったのが決定したのが いつなのか正確には知りませんが、我々が練習を始めたのは'96秋頃でした。 やるほどにこれは大変な曲であると知り(恥ずかしながらそれまで聴いたことが なかったので)、同時にいい曲だなぁと好きになりながらも、こういう曲に慣れて いないせいか単なる実力不足か、思うように歌えず苦慮していました。 何しろ長い。全7曲で合計80分かかるというだけあって、一つ一つの曲も長く、 しかもほとんど休みがない。始めの頃は全体が見えず計算ができなくて、すぐ へとへとになっていました。 本番の約一ヶ月前から石丸先生との合わせ練習が入る予定でした。 しかし既に報道されていたとおり石丸先生は癌に冒されており、余命を宣告 されてから、体力の衰える抗ガン剤を拒否して演奏活動を行っています。体調も 良いとは言えず、一回目の練習が流れました。高まる緊張。万一のことがあったら 本番はどうなるのか。誰かが代わりに振るのか、それとも中止になってしまうのか。 口には出しませんでしたが、誰もが多かれ少なかれ不安に思っていました。 しかし2回目の練習には咳が出るからといってマスクをして現れ、第1楽章から 振り始めました。こちらも緊張が高まります。 石丸先生のテンポは、大変歌いやすいものでした。市販されているCDより速め ですが、生命感に溢れた、生きる喜びの讃歌のような、そういう演奏にしたいという 思いが伝わってきます。そんな石丸先生の熱意に乗せられ、私たちも知らず知らずの うちに練習に熱が入り、石丸先生の仰ることを一言たりとも聞き逃すまいと集中して いきました。はじめは咳が止まらなかった石丸先生もいつの間にかマスクを外して、 熱心に指導して下さいました。 歌いやすいのはテンポだけではなく、たとえばソプラノが高い音域で歌うときには、 手を斜め前方にかざして押さえる仕草をなさいます。これは「頑張らなくていい」と いう合図だそうで、高音は弱くてもちゃんと聞こえるからあくまでも美しく歌うように ということでした。それも、ソプラノの方を向いてニコッと笑って出されるので、 こちらの気持ちがすごく楽になります。 発音についても、歌詞の意味を考えてということを繰り返し仰いました。 1楽章の出だし「Selich sind(幸いなるかな)」ここだけで曲が決まってしまう。 後からだんだん盛り上がってきても駄目だと。 ドイツ語の意味そのままに音が作られているので、きちんと表現するようにと 何度も仰いました。 大変いいムードで練習はどんどん進み、最終楽章。 最初に曲が完成したときは6楽章までだったのに後から付け加えられたという 7楽章は、1楽章の再現部があり「Selich sind(幸いなるかな)」の精神で満ち溢れ た曲です。 が、歌う側にとっては6楽章中間の速いテンポと後半のフーガで疲れ切り、休む 間もなく冒頭のパートソロで体力を使い果たし、息は浅くなる、フレージングは 短くなる、曲全体が見えておらず最後まで保たないといった有様でした。 石丸先生は初めて不満の色を表し、「皆さん何を歌ってるのかわかってないん じゃないのかな?」というようなことを仰いました。これはちょっとこたえました。 ちょうど時間もなくなり、7楽章についてはこの次までの課題…ということで、 初めての合わせ練習を終えました。 それまでも発音指導を受けたり、歌詞の意味を楽譜に書き込んだりはしていたの ですが、いざ歌うと音程に気をとられるのか、まだ体に入っていないことを痛感 させられます。 こうなったらひたすら繰り返してたたき込むしかない(頭を使えという話も あるが頭が悪い集団である我々は体で覚えるのである)。折しも翌日から合宿、 ドイツレクイエム漬けの一泊二日を過ごしました。 その後も一度の合わせ練習、数度の栗友会単独練習をして、本番三日前のオケ 合わせ、そして前日のオケ合わせを迎えました。 大久保にある東響の練習場は合唱団が入ると決して広いとは言えず、熱気で むせかえっていました。ソリストも交えた練習です。 バリトンの木村俊光さん、ソプラノの澤畑恵美さんはいずれも素晴らしい声で、 正確な音程とリズム、ビブラートの多すぎない歌い方はとても好感が持てました。 特に澤畑さんは声がいいばかりでなく美人でスタイルもいい。クリームイエローの スーツで颯爽と現れたその姿は、とても声楽家とは思えません(失礼)。みんなで 「ずるいよね〜、どれか一つにしてほしいわ」と勝手なことを言っていました(^^; 石丸先生も仕上げに入ってきて、表現や曲想のことを細かく仰るようになりました。 主旋律が多いアルト(ソプラノから見ると実に羨ましい箇所がたくさんある)には特に ドラマチックといってよいほどの表現を求められます。これは宗教曲ではあるが 教会音楽ではない、初めから演奏会のために作られた曲だから、もっと激しく表現 していいのだと言われると、素直に納得できます。この日の練習の模様は後日の テレビの特集番組でも紹介されていました。 本番当日。石丸先生の体が最後まで保ってほしいと、みんな願うのはそのこと ばかり。石丸先生のおかげで私たちもドツレクを歌うのがこんなに楽しくなって きたのに、もう本番。ならば先生からもらうだけでなく私たちからもパワーを 送ろう。先生に幸せを感じてもらえるように歌おう。と、楽屋で話し合いました。 第一ステージでは交響曲四番が演奏されましたが、空っぽの客席に向かって 振りたくない、合唱団にも聴いてもらいたいとの石丸先生のご希望で、私たちも P席で聴かせていただきました。 ゲネプロでは今一つ精彩を欠いた石丸先生でしたが、本番は体中からオーラが ほとばしるような指揮でした。私たちもそれに応えようと懸命に歌いました。 石丸先生と一緒にブラームスの音楽を作ること、それしか頭の中にはありません。 はじめはあんなに長いと思っていたのが信じられないくらいあっという間に、 本番は終わりました。 一応譜持ちでしたが、石丸先生から殆ど目が離せませんでした。 先生が指揮棒を降ろして数秒、静寂が訪れ、そして客席から拍手がわき起こり ました。先生もほっとした顔をなさって、何度も合唱団に向かって嬉しそうな顔を して下さり、ステージに呼んだ栗山先生と抱き合うという件もありました。 私たちにとっても本当に幸せな時間でした。 こんな経験ができて良かった。参加できて本当に良かったと思いました。 その後発売されたCDを聞くと、いろいろアラもありますが、あの感動が甦って きます。何人もの方から『名盤』とのお言葉を頂きました。一生の宝物です。 石丸先生の心からご冥福をお祈りします。
サントリーホールでドイツレクイエムを石丸さんの指揮で歌ったのが、 ほとんど最初で最後の機会でした。 最初に合唱団にお話が来たときから、すでにご病気の話は聞いていたし、 本番が近づくにつれ、びっくりするほど大々的にマスコミに取り上げられる ようになりましたから、どうしても意識せざるを得ませんでしたが、 ステージの上では、そういうことはすっかり忘れさせるような熱い指揮を してくださり、実際私などはすっかり忘れてしまっていて、ただひたすら 幸せに歌っているだけでした。 練習では、ほめながら合唱団をのせていくもっていき方が本当に巧みで、 長年のキャリアはさすがだと思いました。 数回の練習とリハと本番と、実際に振っていただいた回数は多くはなかった のですが、ブラームスへの想い、音楽への情熱、そういうのが全部 ひしひし伝わってきて、こちらも熱くなりました。 最後まで精一杯音楽と取り組まれて、颯爽と天に昇っていかれたのだろうと、 ほんの数回お見かけしただけの印象から、勝手にそう思っています。 ご冥福をお祈りします。
いわゆる世間的に有名な方で、自分が実際にお会いしたことがある人というの は、それほど多くない。『東京に行けば芸能人に会える』と思っている人が 今でも地方に存在するのかどうかは知らないが、普通の会社に勤めて普通の 生活をしていれば、有名人に会えることなんて、まぁ滅多にあるもんじゃない。 OMPにいることで、音楽関係の高名な先生方には比較的お会いしているほう だと思われるが、合唱指揮者だの合唱曲の作曲家なんてもんは、世間的には それほどの有名人とはとても言えないのであった。 そんな中で、石丸寛さんは、絶対的に世間が認知している超有名人だったと 言えよう。なんたって『違いがわかる男』なのだから。 …というのは冗談にしても、昨年ドイツレクイエムでご一緒した時の石丸先生 は、とてもとても熱い音への情熱が溢れている、『本物の』音楽家だった。 確実に自分をむしばみ続けるガン細胞と戦いながら、最期の瞬間まで音楽を 奏でていたいという気持ちが、半径100m以内までは伝わっていたと思う。 そしてその彼の思いは、テレビでCDでレーザーディスクで、世界中に伝わって いったと思う。たとえ身体は消えてしまっても、その思いはいつまでも人の心 から消えたりはしませんよ、石丸先生。 日頃少なくとも200年は寿命があると言われている私は、ご一緒した記念に 石丸先生に50年ばかり寿命を差し上げたのだが、私のような取るに足りない 奴のたった50年の寿命なんて、命の極限に立っていた石丸先生にとっては ほんの数日分にしかあたらなかったのではないかと思っている。 実際に生きた時間が仮に76年でも、石丸先生はその何倍も何十倍も、密度の 高い人生を過ごされてきたのだろうから。 もしも私が不治と言われる病になって、病院で寝たきりでいれば1年もちます よ、でもそうしないと1ヶ月しか生きられませんよ、と言われたら、迷わず 好きなことをして1ヶ月生きる方を選ぼう…と思っていたのに、この間友人に 『生きてればその間に治療法が発見されるかも知れないぞ』と言われて、ふむ なるほどなぁと心が揺らいでしまうような軟弱者なのであった。 でもやっぱり、1ヶ月でも歌わないでいるのはつらいし。病院のベッドに寝た きりになっても、歌ったりしゃべったりは出来るんだろうか(←大迷惑)。 くだらないことばかり書いてすみません。 石丸先生、本当に音楽を愛する者の素晴らしい生き方を見せていただいて、 本当にありがとうございました。もっともっと生きて、奏でたい音楽がたくさん あったでしょうに。でも、きっと後悔はされていないことでしょう。 心からご冥福をお祈りします。長い間支えて来られた奥様のことも私は本当に 尊敬してます。 いつかお互い生まれ変わって、また音楽の世界で巡り会えたら幸せです。 (自分と対等にしてることがすでに失礼だってば。) Chum
「石丸寛先生の思い出」といっても直接振って頂いたのはたぶん「ドイツ・レクイエ ム」のみ(ひょっとすると他にもあったかもしれないが・・・)でそれは皆さんと同 じ経験だと思います。しかし、他にもお世話になったことがあります。 まず最初は千葉大に入り最初の全国大会(80年名古屋)に出場した時のこと。 千葉大が「五つの童画」の「ほらがいの笛」に挑戦し、素晴らしい演奏をしました。 しかし当時はまだ審査方法が「順位点方式」(各審査員の順位を合計して少ない団体 を上位とする)で千葉大は1位票を多く獲得したものの、下位の評価も多く、金賞は 1位が全く無かったものの2、3位の評価を全体的に得た札幌大谷短期大学に行く事 になりました。この一件はコンクールの審査方法が「新増沢方式(過半数法)」にな るきっかけとなりました。 石丸先生はこの時の審査員をされており、千葉大に1位の評価を与えて下さっていま した。「石丸寛」というと「違いが判る男」のCMのオーケストラの指揮者というイ メージしかなかったのですが、合唱にも造詣が深いのだということを知りました。 次にお世話になったのは福岡での全国大会(89年)でした。 全く知らない土地での練習場探しはとても大変なのですが、指揮者の三浦宣明さんの 紹介で九州交響楽団専用の練習場を借りることが出来ました。三浦さんは石丸先生の 愛弟子でドイツ・レクイエムの演奏会にも一緒に出演されています。 この練習場は完成した直後で設備も音響もとても素晴らしく、充実した練習をする事 が出来ました。「これだけの練習場は東京の何処のオケも持っていない」「東京に持 って帰りたいものだ・・・」と話をした記憶があります。 この練習場も石丸先生の理念と情熱の賜物のように思います。 これから使う機会の多くなる「すみだトリフォニーホール」もこの石丸先生の大きな 遺産です。 それから追悼記事の中でも紹介されていた著書「それいけオーケストラ」を古本市で 入手することが出来ました。その内容とても楽しく音楽と音楽家やオーケストラのみ ならずアマチュアの音楽愛好家に対する愛情に溢れていました。また反面音楽だけを 絶対視しない冷静な視点でも書かれていると感じました。20数年以上前に書かれた ものですが、今でも本当に共感できるものです。また、報道されているように御自身 で書かれたイラストもとても楽しいものです。 (栗友会事務所寄贈してありますので、読んでみて下さい) 練習の時に我々のリズムが怪しくなると手拍子で指示をし、高音になると「大丈夫だ から安心して歌いなさい」というように微笑んでくれた姿は今でも瞼に浮かびます。 最後に大きな仕事を一緒にさせていただいた我々はとても幸せだったと思います。 あの演奏によって新しい世界が開けつつあります。これからもどのステージも全力を つくすことが、我々の使命ではないかと思っています。 高田憲一
2年前だったでしょうか、すみだの第九の本番当日、石丸先生の病床からの メッセージが会場に流れ、思わず涙がこみあげてきたのを覚えています。感傷的に なったというより、何か熱いものが流れ込んできたという記憶です。 ドイツレクイエムが石丸先生とご一緒した唯一のステージですが、練習の時も 先生のエネルギーに100人以上の合唱団がぐいぐいと引っぱられていたように 思います。今日三善先生がおっしゃっていた「みんなに元気出せと…」 本当にそうだったと思います。 死を意識した時できるかぎり命を燃焼させたいと思うのは誰でも同じでしょう。 でもそれをやり遂げることは誰にでもできることではないと思います。今日集まった 人を含め多くの人に感動や元気を与え、多くの人に惜しまれて逝かれた先生をうらや ましくも思います。また一度でもご一緒できたことが本当に大切な宝になりました。 ありがとうございました。 1998.4.12 西井みどり ※「石丸寛さんを送る会」終了後すみだトリフォニーホール楽屋にて