OMP コンクールの記録

〜 コンクールマネージャーのひとり言 〜
公式の記録以外の内容については、全て高田憲一の個人的な経験・思い出・感想等に基づいて書かれています。

第31回大会(1978年)

会 場:函館市民体育館
課題曲:海を見てると
     茶木滋 作詩/三善晃 作曲
自由曲:合唱組曲「五つの童画」より
      風見鳥
     高田敏子 作詩/三善晃 作曲
ピアノ:田中瑤子
成 績:金賞(3位)

栗山文昭氏の指揮する男声合唱団「東京オルフェオン」、女声合唱団「アンサンブル・ミニヨン」、混声合唱団「クール・プリエール」がコンクールの為に合同し、「合唱団O.M.P.」を結成。初めての全国大会出場を果たしました。
車で本州を縦断し、青函連絡船で北海道に渡った強者(初代の代表)も。
田中瑤子先生のピアノにも助けられ、鮮烈なデビュー。
宿がなんと「合唱団京都エコー」と同宿だったそうです・・・。
函館は市を挙げての歓迎ぶりで、参加章のバッヂを見せればどこでも割引してくれた、そうです。。
また、帰りにはかの代表の車に「OMP V1」と書いた旗を掲げて温泉に遊びに行ったとか・・・。

第32回大会(1979年)

会 場:神奈川県立県民ホール
課題曲:Itene a miei sospiri
     C.Gesualdo 作曲
自由曲:Quatre Motets pour Temps de Penitenceより
      Tenebrae factae sunt
      Tristis est anima mea
     F.Poulenc 作曲
成 績:時間オーバーの為失格(演奏時間12分03秒)

前年の金賞を得ての初のシード出場。
ホールの響きが良すぎた為か、一回目の時間オーバーにて失格。(コンクール史上2度目とか)
出演メンバー曰く「幻のコンクール大賞」という位の名演だったらしいです・・・。
NHKにさる団員が手紙を書き、特別に放送してもらうというエピソードもありました。
これを期に「オーバータイムス」という名称の機関紙を発行。

第33回大会(1980年)

会 場:名古屋市民会館
課題曲:Et misericordia eius(Magnificatより)
     C.Monteverdi 作曲
自由曲:G dur Misseより
      Kyrie
      Gloria
     F.Poulenc 作曲
成 績:金賞(3位)・カワイ賞

一般の部では超難曲がならび、5団体が金賞を受賞し大きな節目となった大会です。
前年の雪辱をすべくプーランクを再び選曲。
私はこの年は実際にホールで聴くことができました。(当時大学1年生)
印象としては非常に声の練度が高いと感じました。プーランクの難度の高いソロを見事に歌っていたのが今でも印象に残っています。
しかし、この日の打上げで前年の失格に対し、一部の団員から指揮者の批判が噴出し指揮者は合唱団O.M.P.の解散を決意。
大学の練習の時に栗山氏からこの話を聴き、少なからぬショックを受けた記憶があります。

第34回大会(1981年)

会 場:福岡サンパレス
課題曲:Siehe wir preisen selig
     J.Brahms 作曲
自由曲:合唱組曲「五つの童画」より
      砂時計
      どんぐりのコマ
     高田敏子 作詩/三善晃 作曲
ピアノ:田中瑤子
成 績:銀賞(4位)

6月に一部の元団員の呼びかけにより、「合唱団OMP」として再結成し、単独の常設の合唱団としての活動を開始しました。
前年の解散によって大幅に団員が減少した為、同時期に結成された「コーロ・カロス」と「千葉大学合唱団」のメンバーに呼びかけてコンクールに出場しました。
オープンしたばかりの「福岡サンパレス」で「五つの童画」を気持ち良く思いっきり歌うが、惜しくも銀賞に終わる、という結果でした。
打上げではみんな涙に暮れながら「大イッキ飲み大会」を行いました。ここで飲んだ「九州」(黒田武士のラベル)という銘柄で、しばらくこの酒は「イッキ飲みの酒」でOMPの酒好きの一世を風靡しました。
また、この時千葉大の学生は集団食中毒に罹り大変な目に遇っていました。OMPに出演した者の中にも具合が悪くなる者が続出して、救急病院に連れて行ったりで大騒ぎでした・・・。(中毒の原因は不明でした)

第35回大会(1982年)

会 場:広島市立体育館
課題曲:四声のミサより
      Agnus Dei
     W.Byrd 作曲
自由曲:優しき歌・第二より
      また落葉林で
      朝に
     立原道造 作詩/柴田南雄 作曲
成 績:銀賞

この年が未だに悪名の高い「体育館」でのコンクール。
同じ体育館でのコンクールでも函館大会は評判が良かったようですが、ここは最悪。この体育館は非常に古く、外壁は薄く、窓も普通のガラスで外の車の音が筒抜け。そして、もっとも酷かったのが一般の部の行われた日曜日。この体育館は「広島カープ」の本拠地である「広島市民球場」に隣接しており、なんとこの日はカープの「ファン感謝デー」。コンバットマーチと歓声が・・・。
舞台は仮設の「額縁」のみを作ったもので、客席は床に直接パイプ椅子を並べた物。暖房設備も無く、とても寒かったことを覚えています。更に最悪だったのは本番前の待機場所が屋外だったこと。寒風が吹きすさぶ中、コンバットマーチを聴きながらの待機・・・。悲しかったですね。
演奏の印象は全く残っていません。
実際、一番実力が無かった年だったと今は思っていますが。
前夜には当然繁華街に繰り出しましたが、その時の代表は「ヤクザが多いけどこっちがなにもしなければ大丈夫だ」とのたまったのが印象に残っています(^_^;)。
演奏終了後、発表を聴く一部のメンバーを残して、その足で栗山氏の故郷である「島根県益田市」に演奏旅行に向かいました。バスでの山越えは結構辛いものがありましたが、翌日は昼間は益田高校の生徒の鑑賞会、夜は一般向けの演奏会でした。
翌日は津和野に観光旅行と、とても楽しい思い出です。

第36回大会(1983年)

会 場:岩手県県民会館
課題曲:Simile est regnum caelorum
     C.Monteverdi 作曲
自由曲:三つの合唱曲より
      Recordare,Domine
     I.Pizzetti 作曲
成 績:銀賞(4位)

開通したばかりの東北新幹線で盛岡に向かう。当時「揺れが少なく立てた煙草が倒れない」という話がありました。
ホールはエントランスが真っ赤な絨毯が敷きつめられ、とても良い感じ。音響の方も東北でも1・2番とか。
OMP出演前日の大学の部で千葉大にも出演した時のハプニング。出演順1番でアナウンスがあり、ステージに並び終わり指揮者も舞台に立ち、歌いだそうとした時に、会場から「ちょっと待って下さい!」という大声が・・・。審査員が全員まだ席に着いていなかったのだ。そのまま約1分間ステージ上で待たされてしまいました。
本人達はあまり感じなかったのですが、客席の身内の連中は「とても見ていて辛かった」と言っていました。課題曲はなにか乗り切れない演奏になってしまったようで、悔いが残りました。結果は銀賞に終わりました。あってはならないミスでした。
その夜OMPの一部の連中はホテルのバーで飲みつつ、翌日の演奏について話しあったそうな・・・。
「明日はどのように演奏すべきだろうか?」
「やっぱり聴き合うしかないだろうな」
「じゃあ、借りて行きますか、耳を」
そのバーにはバニーガールが・・・。(^_^;)
翌日のOMPの演奏は自分達でも「今年こそは!」という演奏が出来たのですが、結果は銀賞。栗山氏は「銀・銀ギラギラ、夕日が沈む」と歌って落ち込んでいました。打上げは又も「大イッキ大会」。地元の出身の団員の紹介でとても良い居酒屋に行ったのですが、滅茶苦茶な大騒ぎ・・・。
旨いにごり酒が寸胴に入って出て来たのを皆で回し飲み。最後に栗山氏がそれをイッキ飲みしようとして、止めに入った現代表にそれを誤って浴びせるなんていうこともありました・・・。
そのあとも3次会に行き痛飲。トイレに籠もったまま出て来ないものが続出・・・。

第37回大会(1984年)

会 場:フェスティバルホール(大阪)
課題曲:Quo,nate Dei
     H.Shütz 作曲
自由曲:3つの合唱曲より
      Cade La Sera
      Ululate
     I.Pizzetti 作曲
成 績:金賞(2位)

私が卒業して1年目のコンクール。この年からA・Bグループ制が開始されました。演奏順は最後から3つ目(その後はなんと豊中混声と京都エコー)。
演奏はなにか「さらっと終わってしまったなぁ」という感じで、不完全燃焼という印象でした。直後に現GMも「こんな演奏で金賞じゃ嫌だ!」なんて言っていました。
で、発表は「出演順だから後の方だろう」と安心していた所にいきなり「金賞、合唱団OMP!」と来ました。一瞬、みんな茫然自失。その後歓喜の大爆発。男も女も泣きながら抱き合いました。あの時の喜びと感動は今も忘れられません。
ホテルに帰る電車の中で栗山氏が金賞のメダルを大事そうにみんなに見せていたのがとても印象的でした。
打上げはホテルの宴会場を借りての大祝宴。氷の白鳥の彫刻があったのには驚きました。大いに盛り上がって、「金賞を取ったら女装する」と宣言していた奴が本当にやってくれたりしたのですが、その前の年までのやけ酒と違って大騒ぎもせずに金賞に酔いつつ夜は暮れていきました。
翌日はレンタカーのリヤウインドにプラカードを掲げて、京都に向かい嵐山観光。
そのまま東名高速を140キロでぶっ飛ばして東京へ。
ああ、金賞を取っても、なんて恥知らずな団体は変わらない・・・。

第38回大会(1985年)

会 場:長野県県民会館
課題曲:Adorna thalamun tuum,Sion
     O.Lassus 作曲
自由曲:Laudate,pueri Dominum op.126
     F.Schmitt 作曲
成 績:銀賞(4位)

久方ぶりのシード出場。「今年はひょっとしてコンクール大賞を取れるのでは?」と期待する程の仕上がりでした。しかし、この年は連盟が方針を大きく変えたのか、審査員の顔ぶれが今までと全く変わってしまいました。合唱に関わっている人から広く一般に知られている音楽関係者になりました。
初日の高校の部から荒れ模様の結果で、「こんな審査員で評価されたからといって喜んでいたら駄目だ」という過激な声も聴こえてきました。
OMPの演奏はとても満足の行くものでしたが、結果は銀賞。一同、落ち込みましたね。口のとても悪い某女性曰く「大バカヤロウ大会」打ち上げでは隣の部屋に居た「大分市民合唱団ウィステリア・コール」が乱入して来て、一気飲み合戦が繰り広げられました。
今年(50回大会)、ウィステリア・コールの人とその話をして盛り上がってしまいました。(^_^;)

第39回大会(1986年)

会 場:愛媛県県民文化会館メインホール
課題曲:Super flumina Babilonis
     G.P.da Palestrina 作曲
自由曲:Missa di Requiemより
      Dies irae
     I.Pizzetti 作曲
成 績:金賞(4位)

久々の飛行機に乗ってコンクールの現地入り。
ちょうどこの年、伊豆大島の三原山が大噴火し、島民の人々が港区の体育館に避難しているのをモノレールから見て羽田へ。
相変わらず、地方に行くと飲む。特にベテランが羽目を外してくれる・・・。
松山の飲み屋に行くと酒が銘酒「梅錦」。某消防士氏が店の人に曰く「もう要らない、というまで酒をどんどん持ってこい」。
私はこの現場に居なかったので、どれだけ飲んだかは定かではないですが、案の定、消防士氏は翌日は大二日酔い。当然、皆でいじめましたけど・・・。
で、本番はというと印象に無いのです・・・。なにかホールが大きすぎて響きが希薄になってしまったという印象でした。なにしろ3000人収容のホールですから。
結果は4位の金賞。で前出の口の悪い女性が又、名言を作りました。
翌日、松山城にみんなで観光に行ったところ、他の団体と遭遇(当然かな?)。で、
「どちらの団体ですか?」
「OMPです」
「金賞おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「来年は東京でコンクールがあって良かったですね」
「・・・」(一同)
「シードでも"平金"ですから」(くだんの女性)
注:金賞は一般の部の場合、1位:文部大臣奨励賞、2位:県知事賞、3位:日本放送協会賞、という特別賞があって、それ以下は金賞でもなにもつかないので、彼女はこれを「平金」と言ったわけです。
当時は金賞団体はすべてシード団体として翌年の全国大会に出場できて、翌年は東京での大会の為、シード団体が出れば他にもう1団体出場できるので、「政治的判断が働いたね」と言われたのです。


第40回大会(1987年)

会 場:昭和女子大学人見記念講堂
課題曲:恋のかくれんぼ
     谷川俊太郎 作詩/武満徹 作曲
自由曲:混声合唱と2台のピアノのための交聲詩「海」
     宗左近 作詩/三善晃 作曲
ピアノ:田中瑤子・浅井道子
成 績:金賞(1位)・コンクール大賞

この年の6月にサントリーホールで委嘱初演した、「海」で満を持してコンクールに望んで、OMPに取って記念すべき大会です。でも、この年はハプニングの連続のでした。
大学の部の前日に千葉大の練習を見に行くと、栗山氏が居らず、田中瑤子先生が指導をしていました。団員に話を聴くと「昨晩、ホテルで急に体調が悪くなって救急車で運ばれた」というではないですか・・・。
急な発熱と発疹があったらしく、本人曰く、内臓まで発疹ができて、辛かった」とか。そんなこと、判るんかいな?
どうにか、回復して本番には間に合ったのですが、もうひとつやらかしてくれました。 一般Aグループに出演した「宇都宮ジンガメル・アカデミー(USA)」が12分19秒の演奏時間で失格・・・。この演奏は名演で復刻盤のCDにも収録されました。
OMPの演奏の方は課題曲・自由曲ともに今まででもっとも満足の行く演奏が出来ました。結果も最高の物を得ることができました。
それと更に嬉しかったのは、畑中良輔先生が朝日新聞紙上の「今年の演奏BEST 5」にこの演奏を選んで下さったことがありました。

第41回大会(1988年)

会 場:新潟県民会館
課題曲:Regina Coeli
     O.Lassus 作曲
自由曲:人間の姿より
      脅威は赤い空のもと
      自由
     F.Poulenc 作曲
成 績:金賞(2位)

前年にコンクール大賞を初めて得て、勢いに乗って連覇と行きたい所でしたが、そうは上手く行かないもの。
この年に栗友会で「子供の十字軍」を初演。シアターピースに初めて取り組むOMPのメンバーはこの企画に今一つ乗り切れず、この演奏会の参加者も少くなってしまいました。
このことが原因で栗山氏との関係が悪化。しばらく練習に来ないことが続きました。
ようやく秋に栗山氏が復帰してくれたものの、団員は前年の90人から65人位に激減。これで「人間の姿(顔)」を歌うのはきつい。なにしろ名高き名曲にして、超難曲。しかも合唱団を2つに分けての二重コーラス・・・。その上、フランス語。本当に苦労しました。
ですが、演奏はとても良かったと思います。厳しい事で有名な審査員も「まいった」と言ったとか・・・?
この年は私がマネージャーを引き受けた年。今までの先輩が抜け、全く未経験の中でのコンクールでした。でも金賞を得ることが出来て本当に嬉しかったですね。(と言うか、ほっとしたというのが正直な所でした)

第42回大会(1989年)

会 場:福岡サンパレス
課題曲:Il bianco e dolce cigno
     d'Avalos Alfonso 作詩/Jacques Arcadelt 作曲
自由曲:混声合唱とピアノのための
      南の島(パイヌスマ)
     新実徳英 作曲
ピアノ:浅井道子・中野明子
成 績:金賞(2位)

新生OMPとして、初めてコンクールに望んだ福岡の同じ会場に、懐かしさとほろ苦さを思いつつ、私はコンクールの実行委員長として一般団員より一日早く博多入り。下見を済ませ、一緒に行った連中と当然夜の街へ繰り出しました。
一軒目を出て、「博多といえば屋台だぁ」と夜の街をガイドブック片手に有名な東急ホテル近くの屋台へ向かう。「確か、栗山氏のホテルって東急だよね」と言いつつ、屋台に近づいて行くと、店の明かりに浮かぶ大きなシルエット。
「会っちゃったぁー!!!」とは一緒にいた現某GM。
本当に鼻が効くのです、このお方は・・・。
それと栗山氏は前に博多に来た時、一人で屋台に入ろうとしたら、その筋のあ兄さんに「おつかれさまでした!!!」と最敬礼された経験の持ち主とか。あの身体に派手目の恰好でいると、それらしく見えますよねぇ。特に若い女の子を2・3人連れて歩いているとなおさらねぇ。
で、翌日本体も合流。練習後は当然皆で夜の街へ。「最近は中州より、親不孝通りだ」とかで、こちらへ。(「親不孝通り」の語源はこの近くに予備校とかが集中しているのに遊ぶところもこの通りに一杯あるから、とか)
で、2晩とも飲み屋で飲んだ後、屋台のハシゴ・・・。当然ホテルに帰るのは深夜・・・。(泊まったホテルが清掃が良くなかったりして帰りたくなかったのも一因)
当日の朝の練習で団員のそういう気分を感じたのか、栗山氏に「おまえら、遊びに来ている訳じゃないんだぞ!!!」と一喝されました。
演奏の方はまあ、満足の行く内容だったと思います。(採点表を見返してみると1位でコンクール大賞を受賞した京都エコーと一位は4対4で、もうひとりが下位の方で、エコーの方を上につけていました。惜しかった・・・)
で、この自由曲はほとんどがヴォカリーズで、新実さん独特のグリサンドと音の揺れと絡み合いが延々と続く曲で、男声は最初の2分間はずっと同じ音を延ばすだけ・・・。(ファルセットの出来ないBASSのメンバーが実声で歌い出せる場所に、彼の名「練習番号コバヤシ」と付けたり・・・)
でもとても良い曲だし、楽譜も出版されているのでどこかの合唱団で歌ってくれないかな。(カロスがやっと歌ってくれました・・・)
OMPはこの年からコンクールで現代の日本人の曲を歌っていくことになります。
翌日はオプショナルツアー。(^_^)
観光バスを貸切り、柳河・長崎・天草を回り、フェリーで熊本に渡り、熊本空港から帰る、一泊二日コース。
で、このツアー出発から大混乱。前日はほとんど朝方まで飲み続けた連中は当然の如く起きて来ない・・・。部屋を回って叩き起こしてやっと揃ったかと思ったら、栗山氏から「俺も行くから待って居ろ」という電話が・・・。
出発したのはやっと一時間後。
それとこの観光バスでやって来たガイドさんはかなりのベテラン。指導教官らしい、雰囲気。
出発のゴタゴタの後、彼女曰く
「今日はとても緊張して来たのですが、ほっとしています。私も長年ガイドをやっていますので、"〜会"というからてっきりその筋の方かと思いました。」
やっぱり、「栗友会」なんていう名前はそういう関係に思われるかぁ。まあ、「名は体を表す」ってやつで、「栗山軍団」なんていう風にも言われているし・・・。
その後このガイド女史、強気で煽りまくること。
「これからはサバイバルゲームですから、集合時間に遅れたら置いていきます。」
でも、さすが指導教官、歌は巧いし、説明もとてもお上手。
でも相変わらず、柳河で小舟に乗って川下りとかをしていて遅れる者続出。
やっとのことで長崎に辿りついたのが8時過ぎ。クラバー邸も見れず・・・。
でも稲佐山からの雨に煙る夜景は綺麗でしたね。
翌日、平和公園を回って天草へ。まだ雲仙普厳岳は噴火しておらず静かな風景でした。フェリーで天草から熊本に渡る途中に見た雲間から差す陽光も神秘的で忘れられません。
しかし、やっと熊本についたもののこちらでも時間が無くて、水前寺公園のみ。熊本城も見られずに、帰郷と相成りました・・・。

第43回大会(1990年)

会 場:北海道厚生年金会館
課題曲:Ero cosi dicea
     M.Martinengo 作詩/L.Luzzaschi 作曲
自由曲:無伴奏混声合唱のための「式子内親王の七つの歌」より
      花の光に
      しるべせよ
      澄みし夜の
     式子内親王 和歌/西村朗 作曲
成 績:金賞(2位)

この年からカロス・青い鳥も参戦。「栗山現象」の兆しが現れはじめた年。
カロスの現代表が札幌出身なのを生かして、音環境の良い練習場・ホールを確保。中でも千歳のホールはとても響きが良く皆で「東京に持って帰りたい」という程。
また、この年はもうひとつ栗友会にとって記念すべき年になりました。
OMPが函館でコンクールにデビューした翌年から12年間全国大会に出場しながら、なかなか金賞に手が届かなかった「千葉大学合唱団」が初めての金賞を獲得し、1位に輝きました。私がOMPの練習の最中に連絡を受けたのですが、本当にうれしかったですね。これをOMPの連中に伝えるともう大騒ぎ。前の11年間の内の何年かに責任のある連中が沢山居ますからね。(私も)
これで一気に雰囲気が盛り上がりました。
OMPの演奏については自分では印象があまり残っていません・・・。(^_^)
印象に残っているのはカロスの「演技付き」の演奏。
ペトラッシのナンセンスのあくびの場面では本当にあくびをしたり、振りを付けたりしながらの名演でした。
それから三善先生が打ち上げにおいでになり、栗友会団体の現代曲、特に日本人の作品に対する取り組みと演奏を高く評価して下さったことを印象的に覚えています。
余談ですが、「5年連続金賞」の賞状に予め印刷されている「AJCL」の文字が逆さまになっているという珍しい賞状を貰ったりもしましたね。
このコンクールでは高校の部の審査発表の時に入場券の無い高校生達が受付を集団で「強行突破」、なんていう笑えないエピソードも・・・。
翌日はまた、オプショナルツアー。(^_^)
相変わらず出発が遅れました。原因も一緒・・・。
二階建てバスでまず小樽へ。運河観光・北一硝子での買い物(建物が立派になった割に、良い品物が無くなったと感じたましたけど)をし、お約束通り寿司屋へ。
でも、ちょっと期待外れ・・・。やっぱり観光バスで乗り付けられるような店はね。
小樽から余市のニッカウィスキー工場へ。私は仕事柄こういうところは結構見ているのですが、規模も小さくて「未だにこんな風にやっているの」という位の手作業で、全体的に小規模なのは驚きました。
余市駅で当日中に帰る人達と別れる予定だったのですが、「急病」になり引き続き観光するもの多発・・・。(^ ^;)
宿はニセコの五色温泉。人里離れた山の中で途中で道が判らなくなったりして四苦八苦。到着後は早速温泉に入り、後は大宴会。塩味の鍋が美味しかったです。酒は宅急便で宿に送りつけてあるという手回しの良さ。
月曜日ということで他に泊まり客はツーリングの青年達のみ。彼ら曰く「ここに二階建てバスで来る団体客なんて初めて見た」とか・・・。
翌日は昭和新山・洞爺湖というコース。シーズンオフの平日ということでどこもガラガラ。ほとんど貸切り状態の快適さで騒ぎ放題。でもそのおかげで登別の「熊牧場」は熊が「研修中」とかで見れず・・・。
(団員のK畿ツー社員、ちゃんと調べておくように)

第44回大会(1991年)

会 場:岡山シンフォニーホール
課題曲:Domine fac mecum
     O.Lassus 作曲
自由曲:混声合唱と2台のピアノのための 歌集 田園に死す
     寺山修司 作詩/三善晃 作曲
成 績:時間オーバーの為失格(演奏時間12分01秒)

また、やってしまった時間オーバー・・・、指揮者通算3度目。
前日の大学の部では千葉大の影に隠れていた宇都宮大が千葉大のシードにより、初出場。千葉大と共に見事1・2位で金賞を獲得しました。
会場のホールは出来たばかりとは思えない素晴らしい響きでした。(横浜とこの辺も一緒)。
演奏が終わり、更衣室に戻ると「遅かったな」という声が上がりました。私自身は全くそう感じていなかったので「大丈夫だろ」と言っていましたが、心配になり会場で隠れて録音するように頼んでいたカセットテープをストップウォッチ片手に聴くと、確かに12分丁度位掛かっている。で、もう一度聴き直そうとしましたが、その時にストップウォッチのボタンが弾け飛び・・・。不吉な予感。
表彰式になり、審査員の皆川達夫氏が講評を行いました。その最後に「誠に残念ながら今回は時間オーバーによる失格が2団体も出てしまいました。」
ああ、やはり。
結果は演奏時間オーバーによる失格・・・。
古い連中はこういう時こそしっかりせねば、という気持ちからか不満は一切言いませんでした。(「これで我々も一人前のOMPだ」強がりも・・・)
只、若い連中は泣いて悔しがりましたが。
「1秒オーバー」ということが判ったのは打ち上げに池辺晋一郎氏が慰めに来てくれて教えてくれたのですが、例の駄洒落で「一秒息災で頑張って欲しい」とやって一部にひんしゅくを買ったりも・・・。
今でこそ笑って話せますが、やはり残念な思い出です。
それとこのときの「女声合唱団るふらん」の「おとこ・おんな」の演奏が素晴らしく、見事コンクール大賞を受賞しています。

第45回大会(1992年)

会 場:仙台サンプラザ
課題曲:O quam gloriosum est regnum
     T.L.de Victoria 作曲
自由曲:混声合唱とピアノのための「縄文連祷」から
     宗左近 作詩/三善晃 作曲
ピアノ:田中瑤子
成 績:金賞(2位)

前年の失格の為シード権を失い、東京支部大会からの真剣勝負。なにしろ東京には最大のライバル「コーロ・カロス」が居る。あれだけ真剣に緊張したのは久しぶりでした。結果は5人の審査員全員に1位をいただき、東京代表に。カロスも素晴らしい演奏でこちらも全員2位という評価でした。全国大会出場枠はA・Bグループ一つずつの他にA・Bどちらかからもう一団体あったのですが、Aグループから選ばれこの年はカロスは全国大会に出場出来ませんでした。
仙台のホールは全くコンサートをするような環境でなく、「イベントスペース」。
夏に下見に行ったとき仕込みをしていたのが「とんねるずコンサート」・・・。
可動式の床と客席で、PAを基本としたホールでした。また、リハーサル室も小さい部屋が一つだけしかありませんでした。
コンクール直前の練習場には仙台市郊外のホールを全館押さえて練習していた為、落差が気になりました。
本番になって、舞台はやはり仮設。やたらと間口が広いが天井高が低い変則的な物。音も案の定・・・。
OMPの演奏が終わって会場の外に出ると何人かの人に「11分19秒でした」なんて、言われたりして・・・。ご心配おかけしました。
結果は栗友会6団体(千葉大・宇都宮大・るふらん・USA・青い鳥・OMP)が全部が金賞を得ることが出来ましたが、内容的には少々満足の行かない結果でした。
某団体がタクシーに金賞の楯を忘れた、なんていう大ボケもありました。
そう、それからOMPが貰った「宮城県知事賞」はこのあとに汚職で逮捕された人だったりもして・・・。

第46回大会(1993年)

会 場:フェスティバルホール(大阪)
課題曲:Super flumina
     O.Lassus 作曲
自由曲:混声合唱のためのアヴェ・マリア
     細川俊夫 作曲
成 績:金賞(1位)

栗友会7団体が全国大会に出場(千葉大・宇都宮大・るふらん・USA・青い鳥・カロス・OMP)ということで、練習会場も今までにない数が必要でした。
3日前から門真市のできたばかりのホールを押さえたり、最終日は直前の練習場として中之島にある「中央公会堂」を借りたりと、準備がかなり大がかりでした。
特にこの中央公会堂は重要文化財に指定されている建築物でとても歴史を感じさせる荘厳なおもむき。床も石造りで響きもなかなか良かったのですが、雨が降っていたために本番直前に床で滑って腕を打った者発生。で打上げでどうも腕の痛みが続くので病院に連れて行くと「骨折しています」・・・。
ほんと、色々と仕出かしてくれます。
大学の部の2団体とも素晴らしい出来で、1・2位の金賞を獲得。Aグループのるふらんは笙(しょう)との共演で見事1位、USAも4位ながら連続金賞。
翌日の本番直前の練習で栗山氏が「アヴェ・マリア」の練習をしながら氏の母に対する思いを語り、感極まって涙を見せたのには参りました。それまで曲自体は歌え、とても美しいと感じるもののどこか音楽の奥に秘められた感情に辿りつけないもどかしさを感じていたのですが、これで一気にこの曲への対し方が変わったように思いました。(しかし、これを意図的にやったのだとしたら凄いタヌキだ・・・)
結果はOMP1位、カロス3位、青い鳥4位で全て金賞を得ることができました。
で、今年こそは「コンクール大賞」を期待したのですが、結果は見事職場の部の「住友金属」にさらわれました・・・。一同「そう来たかぁ・・・」
これが某評論家氏曰く「栗山現象」。
翌日のオプショナルツアーは2手に別れての行動。名付けて「湯煙ツアー」と「神戸グルメツアー」。
「神戸グルメツアー」の引率は私。この年の前半神戸に長期出張した経験を生かしてのツアー。コンセプトは「食事は最高のものをリーズナブルに、宿はとにかく安く」
まず、大阪から新快速に乗り、明石の名店「菊水鮓」へ。大人数に子連れということでひょっとすると断られるかと思っていましたが、歓迎して貰い奥の座敷へ。
一同、最高の味に大感激でした。(値段もとてもリーズナブル)
それから港に出て「明石海峡」を快速艇で渡り「淡路島」へ。(僅か15分)
まだ、主塔だけだった明石海峡大橋を海上から眺めました。淡路島には1時間程度の滞在で、本州にトンボ帰りし今夜の宿に。
宿は通常、海を仕事場とする人達の宿泊施設。大部屋ですがそこそこ綺麗でとても安い。チェックインと一息ついてから三宮へ。夜のメニューは当然神戸牛。
東門街の入口にある「大西」へ。この店は不思議な料金体系で、ステーキ200gで4000円。ところが2人前のコースはステーキ・薄焼き(お好み焼きを薄く焼いてパリパリにしたもの)・帆立貝・海老(巨大)・野菜・焼き飯が二人前で10000円、というもの。これを3人で食べたのですが大満足でした。
まだまだ夜は終わらない。大西の向かいにある「安っさん」で巻き寿司と東門街奥の「愛愛」で餃子を仕入れ、酒とビールも買い込み、宿で二次会・・・。
部屋で遅くまで飲んで騒いでいたら、無言電話が・・・。m(_ _)m
翌日はお定まりの山手・異人館巡り。山手キリスト教会で中を見学しつつ目立たないように小声で歌っていたら、神父様がいらして「歌っていい」ということで課題曲を歌いました。人数が揃っていたら「アヴェ・マリア」を歌えたのですが・・・。
異人館を見学し昼食はお好み焼き。北の坂の「美作」で超辛口の「ドロソース」で味わいました。
そして最後に「イスズベーカリー」でパンを土産に買って帰途につきました。
阪神大震災で山手教会・異人館は大きな被害を受け、未だに復旧していないところも数多くありますが、先にあげた店は皆元気にやっています。
神戸は観光地ですので遠慮せずに行ってみてください。神戸を愛する者のひとりとしてお願いします。

第47回大会(1994年)

会 場:金沢観光会館
課題曲:Gaudent in coelis animae
     T.L.de Victoria 作曲
自由曲:混声合唱のための「愛の園」−アウトサイダー1−
     William Blake 作詩/八村義夫 作曲
成 績:金賞(1位)・コンクール大賞

この年の2月に金沢に招かれ、講習会・演奏会を行ったため知り合いも多く準備も順調に進みました。
しかし、直前になり栗山氏が突然心臓の不調を訴えるという事態が起こりました。
直ぐに入院・手術という深刻な状況ではないものの無理は出来ない状態になりました。練習も団内指揮者に振らせて、後ろでこれを聴きながら指導をする、という状態が続きました。
OMPの曲は「愛の園」。初めて楽譜を見たときにはこういう楽譜は割りと見慣れている筈の団員が皆呆然・・・。ほんと「どうやってやるんだ?」という感じ。
音程やリズムが難しいだけならともかく、人間の生理としてとても無理そうなところが沢山ありました。音取りにはさんざん苦労しました。
で、努力の結果この自由曲はまあ歌えるようになったのですが、問題は課題曲。音程がどうにも決まらない。ずっとこの曲ばかりやっていてもなかなか巧くなりませんでした。
現地入りして栗山氏の練習の時に「男の音程が悪過ぎる。試しにSATBに並んでみろ。」と一言。これをやってみると先程までとは全然音の決まり方が違いました。
「愛の園」は合唱団の並び方に「女声が前、男声が後ろ」という指定があってこれを守る必要があります。ということは課題曲と自由曲の間で並び替えが必要・・・。
時間にもそんなに余裕があるわけではないので、これはまずい・・・。
それでもこの移動を何回か練習した結果まあ、大丈夫ということでこれで本番に向かいました。課題曲が終わって一斉に移動したときには栗友会の連中も事前に知らせておかなかったので驚いたようです。ただ「さすがシアターピースをやっているだけあって、見事な移動ぶりだった」なんて妙なところに感心もされたり・・・。
自由曲はもう「切れまくり」の「やりたい放題」で「事故多発」・・・。
終わってから暫し呆然状態から覚めると皆で笑ってしまいました。その中の一人が曰く、「これだからOMPの本番は面白い」。(^_^;)
発表までの間にロビーで演奏のビデオを流しているのを見つつ、また皆で大笑い。
その後ろを瑤子先生が通りかかり「100点満点よ」と言って下さったのにもまた大笑い・・・。
結果は東京大会以来7年ぶりのコンクール大賞を得ることが出来ました。コンクール出場の有終の美を飾ることが出来、本当にうれしかったですね。
とは言っても、栗山氏はこの時は翌年の高松大会にも出るつもりで、帰りの小松空港で「来年に向けてすぐ準備を開始しろ」なんて言っていました。私もそのつもりで関西に出張したついでに高松まで足を伸ばして練習場を押さえたりしたのですが、コンクールへの出場はこの年が最後になりました。
翌日はまたまたオプショナルツアー。(^_^;)
レンタカーを借りてドライブをしつつ、加賀温泉へ行くつもりがまたまた栗山氏が「俺も行く」と言いだしてスタートが遅れる。(結局、氏は愛のある青い鳥の娘たちと別行動・・・)
うちのお姉様方は温泉、特に露天風呂が好きで(混浴ならもっと・・・)、温泉につかりながら酒を飲みつつ延々と入っています。
翌日は能登半島を北上し能登島へ。昼食に私が調べておいた寿司屋(ビッグコミックオリジナルに連載中の「こだわりの店」に紹介された)行くと、なんと栗山氏が若い娘達をつれてもう飲んでいるではないか・・・。油断も隙も無い・・・。
帰る段になって、栗山氏は「お前たちと帰る」と言いだす。金沢市内に戻ると突如「近江市場に行け」とのたまう。小松空港まで直行するつもりだったものの多少時間があると見た為、寄ることにしたのですがこれが大失敗。夕方の金沢市内の大渋滞に遭遇してしまいました。
やっとのことで市場にたどり着くと栗山氏は買い物へ。しかし待っていても中々帰って来ない。痺れを切らしてトランシーバーを持たせて捜索隊派遣。そこへ栗山氏帰還、しかし捜索隊が帰って来ない・・・。時間が・・・。
やっとのことで揃ったものの飛行機の時間が迫っています。北陸自動車道を140キロでぶっ飛ばしで一路、小松空港へ。
なんとか間に合って無事帰郷。まったく・・・。


最後に
学生時代から十数年に渡り毎年、日本全国を旅し、そこで歌い、美味しい物と酒を味わい、その土地の人々にお世話になったことは生涯の思い出です。
コンクールから撤退しこれからはこういう機会が余りなくなるのは残念ですが、これも時の流れ。
OMPはコンクールのために生まれ、解散し、再び集まり、泣き、喜び、力をつけ、新しい流れを創ってきました。
これからはもっと広い世界に出て、新たな道を求めていきたいと思っています。

OMPを育ててくれたコンクールに感謝します。

1997年11月26日

Backホームへ
高田憲一 <mugen.takada@nifty.com>
合唱団 響