■プログラム 交響曲第1番(1947/63/91) 序奏、主題と変奏(1992)〜日本初演 交響曲第9番(1997)〜日本初演 (演奏) 指揮:大野和士 チェロ:黒川正三 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団 合唱:栗友会(合唱指揮:栗山文昭)
#8978/8979 大ホール ★タイトル (DAT19113) 98/ 8/27 2:28 ( 63) 演奏会>サマーフェスティバル/ヘンツェ交響曲9番 tujimoto ★内容 ヘンツェの名前は海外のオペラ情報とかコンサート情報で良く見かけます。特に 最近はベルリンとかでよく演奏されているようです。でも日本では余り馴染みが なくて、ライブで聞くことは滅多にありません。ですから今日のコンサートはと ても貴重。しかも日本初演が二つもあるというのは面白そうです。とりあえずサ ントリーホールに行ってみることにしました。 電話予約したチケットを受け取ってホールに入ります。今回のサマーフェスティ バルのシリーズに関してはプログラム解説は全て1冊にまとまっていますが、こ れは既に数日前の日曜日に買ってありました。今日はそれを持ってくるのを忘れ たので、一体ヘンツェの曲とはどんなものか良く分かりません。プログラムを2 度買うのはナンセンスなので、会場に売られていたヘンツェ第九のCDを買って 、その解説を読むことにしました。 ●交響曲1番と序奏・主題と変奏 さて最初の交響曲1番と序奏・主題と変奏は後半の第九交響曲の前座のように比 較的軽めの曲でした。ヘンツェというとコリリャーノと同様に聞きやすい音楽、 すなわち懐古的ロマン派を感じさせる現代ものといったところでしょうか。耳当 たりは良かったですが、交響曲1番はもうひとつ得体の知れない音楽に感じまし た。指揮の大野氏は最近は演奏形式オペラでも活躍されていますが、こういった 珍しい曲にもチャレンジしているのですね。 二つ目の序奏・主題と変奏ではチェロとハープがデュエットのように並んで演奏 されましたが、特にハープの響きが独特でした。ところどころすごく美しい旋律 も流れていましたが、断片の音楽という印象で、どうもヘンツェの音楽の実体が よく把握できませんでした。 ●第九交響曲 前半に比べて、後半はヘンツェの第9交響曲。これのテーマは明確で、ナチスド イツによる悲惨さを追及したもの。ですからある種の表題音楽でもあり、ストレ ートに迫ってくるものがありました。フルオーケストラといろんな打楽器類が並 べられ、ステージは目一杯の状態。それにP席一杯に合唱が埋まり、まるでマー ラーの第8交響曲のよう。でも大音響で鳴りまくる曲ではなくて、概ね沈みこん だ悲しみと恐怖と絶叫の爆発が特徴の音楽でした。だから壮大とか雄大とかは一 切無縁でむしろ聞いていて苦しくなりそうでした。 ほとんど合唱も歌いっぱなしでしたら、かなり大変な曲のようですね。特に第5 楽章の転落には圧倒されるような衝撃を覚えましたし、6楽章の大聖堂の夜では 運命を知らせるようなオルガンとむせび泣く恐怖の合唱との対比が印象に残って います。さてオーケストラの演奏のほうについては余り印象が残っていません。 何となく合唱とオーケストラが融合していて、むしろ歌詞のある合唱が主体の演 奏でした。とても長い曲ですが歌詞を読みながら聞いていると、まるでモノクロ のナチス時代が見えるようでした。今ちょうどベルリンフィル初演のライブCD を2度ばかり聞き終えたところで、今日の演奏を思い出しています。グレツキの 交響曲3番とはまた違った厳しく重たい曲でした・・・ tujimoto
#8948/8950 カフェ・オルフェオ ★タイトル (XTM34871) 98/ 8/28 16:53 ( 72) …中略… ●りぶんさん ヘンツェの第九 とんぼ >なるほどまだ席が埋まっていないんですか。 >やっぱり「現代音楽」だから、てんで?(^^; わたしども夫婦でふたつは埋めました。ココさんとからから!さんと 一緒に聴きました。 >私の知るかぎり(と言うほどは知らないか(^^;)、ヘンツェは >すんげ〜クラシックなスタイルです。 パンフに「新古典主義」と書いてありました。 でも、曲の間に ピリリリリ〜 と、体育の時間に先生が吹くような 笛を鳴らされ、合唱団からも一斉に「わっ」と脅かされ、はっとして どきどきしました。どのあたりが古典なのかよくわかりませんでした。 私でも拒否反応を起こさなかったあたりが古典なのかな。 あまり深入りすると#2の話題になるのでこのへんでやめます。 しかし、ラジオなどで耳にするよりもよかったのは確かです。 どんな演奏会でも必ず眠る夫は、めずらしく寝ませんでした。 貴重な機会をくれた究生さんに感謝します。 …以下略…
#8991/8991 大ホール ★タイトル (NKE44364) 98/ 9/ 3 18:49 (154) 演奏会>ヘンツェの交響曲 からから! ★内容 このごろ通信でさんざん現代音楽の聴く技術だのについて、議論が盛り上がっ ていたところで、現代作品の演奏会というのも、普段と違った気分で聴くきっか けになりました。 私にとってヘンツェは今回のコンサートで初めて知った作曲家ですが、CDなど の解説を見ると「ドイツ現代音楽界の重鎮」というような位置づけになっている ようですが、とにかく知らない。まわりの人もごく一部の人しか知らない。 いったい今、ドイツ現代音楽界どうなっているのだろうか?というのがまた、 大きな興味を抱くポイントにもなりました。 ●交響曲第1番(1947/63/91) 初版が47年、今回の演奏が91年版と言うことで、しつこく改訂を入れているの が、この曲にとってどんな意味があるのか気になるところです。 パンフレットを読んでヘンツェが「新古典派」の作曲家であることがわかりま したが、これもなかなかピンと来ないジャンルであります。 編成は比較的小さなもので、ベートーヴェンの時代の交響曲が演奏できる程度 といいましょうか、このへんは「交響曲第一番」らしい感じもします。 さて、曲。 曲は、なるほど現代音楽のアヴァンギャルド性は一切無く、響きは終始穏やか でせいぜい座りの悪い感じの所もあるか?といった印象。 「は〜、こういうのが"新古典"なのか」と思わせる。 しかし、たとえば聞き易い響きの現代交響曲の代表格であるようなグレツキの 三番(悲哀の交響曲)などと比べると、これといった明確なテーマが浮かんでこな い。 なんとなく、もやもや…としたまま終わってしまったと感じました。 時代背景について書くと、1947年というのは、シェーンベルク、ウェーベルン あるいはストラヴィンスキーやドビュッシーの新しい音楽が生まれて久しい時代 ではあったものの、第一次世界大戦とナチの文化政策から、ドイツ内では新しい 音楽が生まれなくなっていた時代だそうです。 なにしろ、当時芸術家の多くがアメリカに移住してしまったということも、 国内芸術界には影響が大きかったようです。 このような状況の中で、ヘンツェは第一番の交響曲を発表するわけですが、 "セリー主義、新古典主義とロマン主義の融合"といわれるその作品は、 シェーンベルクの再発見。などという評価もされたようです。 しかしながらこの作品に関する私見としては、シェーンベルクと比べたらだい ぶ小粒な印象を持ちました。 私もそんなにみっちり聞き込んでいるわけではありませんから、数少ない経験 から論評するのは危うい点もあるでしょうが、例えばシェーンベルクの 「浄められた夜」にみられるリリシズム、ロマン主義との融合とくらべれば、 ヘンツェの音楽はソフトなだけで、どうも"ぼけぼけしている"という印象は拭い きれないのであります。 ●序奏、主題と変奏(1992)〜日本初演 こちらの作品は、ぐっと年代が新しくなりますが、交響曲一番とそれほど違う 印象は持ちませんでした。 ●交響曲第9番(1997)〜日本初演 さて、この演奏会の目的でもある交響曲第九番であります。 交響曲作家にとって今もなおベートーヴェンの第九は、越えられない山である のか、ヘンツェの第九もまた巨大な編成の合唱付き作品です。 現代音楽の作曲家であるならば、ベートーヴェンの業績など意識的に避けて通 るくらいの人の方が私の好みといえるのですが。 編成は前二作品とはうって変わって、なんでもありの大きな管弦楽に、ピアノ、 ハープ、オルガン、チェレスタ、10人以上の打楽器奏者を必要とする打楽器群と、 無いものは無いといっていい大編成。ムチ、金槌、サイレンまでもあり。 無い楽器を探したらオンドマルトノくらいじゃないかと思うほどで… あ、ギターやマンドリンも無いですが…(^^; そしてもちろん、サントリーホールのP席をほぼ埋め尽くす大合唱。 この曲では、合唱が主役です。 して、この物量を投入した編成で歌うテーマは『ナチスドイツの迫害』 ハンス=ウルリッヒ・トライヒェルの詩で、
1.脱出 | ナチに追われるユダヤ人の恐怖について |
2.死者の中で | とらえられたユダヤ人の独白調の詩 |
3.迫害者の報告 | ユダヤ人をとらえた状況を語る者 |
4.すずかけの木は語る | (よくわからない詩です…??) |
5.転落 | 逃亡した芸術家が屋根の上に追いつめられ撃ち落とされる |
6.大聖堂の夜 | 死者の諦め、逃亡者の恐れ、聖者たち(体制側の者)の偽善 |
7.救済 | (彼岸の世界か、戦後の世界かの抽象的描写) |
という七つの楽章を歌います。 現代の音楽はやたらに政治的メッセージの濃厚なテキストに作曲したがること、 そして、そのような音楽は純音楽的な立場からの評価(批判)をかわすための、 安直な傘のようなものである。あるいは、非音楽的付加価値である。 …などの見方をすることが出来るという意見も聞かれるように、私も、 今(1997年)、ナチ問題を扱う詩を題材に『第九交響曲』を書く価値というものに は漠然とした疑問を感じないではありません。 もっともヘンツェに限っていえば、 「60年代末から左翼運動に身を投じ、マルクス・レーニン主義の学習、数度にわ たるキューバ訪問、そこでの音楽家たちとの接触の過程から、音楽が来るべき 社会の理想を描くことが可能なものであるという確信に達した。」 また、彼は芸術家としての側面的支援としての存在であるよりもむしろ、 社会主義革命の仲間入りを欲している、ともいわれています。もっとも、ソ連邦 も崩壊したことで、現在の彼の思想的地盤がどのように変化してきているのかは 古い文献だけでは想像もつかないのですが。 ともあれ、このような経歴を持ち、筋金入りの左翼思想作曲家と認めることは 出来るわけで、一般に聴衆及び批評家筋にも作曲活動の集大成と認められるであ ろう第九交響曲にこのような題材を持ってきたことは、彼にとっては筋の通った ことなのでしょう。 もっともポール・グリフィスによる 「ヘンツェが自らの孤立を、才能ある創造者である故であると考えていること は、これを社会主義革命家に重ねて考えているのである。」 という評価を見ると、「音楽」としての作品に対する疑問が膨張してしまうの も押さえられないところではあります。 さて、当日の演奏の話からだいぶ遠くに来ましたが、ここで戻します。 最初から最後まで合唱を通して語られるこの作品について、ドイツ語のわから ないものが歌詞カードを見ながら聞いた評価では全体的にとらえているとは言え ないかも知れませんがまた、いずれにしても難解な現代詩によるテキストである ことを考えれば実はネイティブな人にとっても、事情は対して変わらないのかも 知れません。 音楽はヘンツェの前二作品に対してとびきり濃厚で、極端に刺激的な飛び出た 音はない変わりに、終始重く渦巻くような響きの連続でした。 合唱は密度感のある硬質な声で、これをよく表現していと思います。 とにかく、このようなテーマを扱う作品に旋律や、形式感や、そういう通常の 音楽に対するアプローチで善し悪しを云々することは無意味であると思います。 しかし、音楽の内容に関わらず演奏の善し悪しというものはあるもので、重く、 暗い音世界を重厚に表現していた合唱は評価に値すると思います。 オケについては、この曲ではほとんど伴奏、効果音と言っていいのではないか と思います。 曲のハイライトはやはり、「6.大聖堂の夜」だと言っていいと思うのですが、 聖者を表す12人のカンマーコアと、逃亡者を表す全体合唱の対比はありふれた 手法ですが、音楽的にも面白く聞くことが出来ました。 12人は、さすが栗友会合唱団の中でも「声のある人」を選んできただけあって 強い響きで聖者たちを表現していたと思います。 聴き終わって、個人的に曲はそれほどのものではないと思っているのですが、 ともあれ圧倒的なパワーでナチの悲劇を歌いきり、飽きると言うことをさせな かった合唱団に、拍手を送りたいと思います。 平凡な合唱団では、けっしてこのような強烈な社会観を表現することは出来な いでしょう。ポイントはやはり、一人一人の技術と「強靱な声」にあるような気 がします。 それから、大野さんの明快で颯爽とした指揮ぶりも印象に残りました。 とにかくややこしいリズム満載の音楽で、指揮者の力量はこの演奏の大きな 鍵であったろうと思います。 演奏者の皆さん、お疲れさまでした。 からから!